※ご注意 (若干ですが、仏×伊の絡みがあります)



 紐のない靴を選んで 

「あれ、俺が今行こうと思ったのに……」
「なんだ、悪いか」
「ううん」
 ドイツは少し緊張していた。
 腕組みを解き、ゆっくりとベッドに近寄った。もう夜半をまわっている。
 廊下で別れてから自室で横になっていたが、時計ばかり見てしまうことにうんざりして、客室までやってきた。意外にも部屋の電気をつけたままで、起きていたようだった。
 奥へ退ける仕草をして、隣に並ぶ。イタリアは微笑み顔を覗き込んできた。しばらく眺めると満足したのか、こちらを向いたまま横になり、枕に頭をつけた。顔が半分沈んでいる。枕に触れるイタリアの頬は、柔らかいのだろうなと思った。
「ねえねえ、そーいえばさ、このあいだにーちゃんが」
 それからイタリアは、スペインが家に遊びに来た時の話をした。話にはきりがなく、ドイツは時に笑いながら相槌を打った。
 やがて、喋りながらうとうとしているイタリアに気づく。話の途中でナイトテーブルに手を伸ばし、電気を消した。再び横になり話を聞いたが、言葉の間隔が少しずつ空くようになる。話も進展しなくなったので、イタリアの頭に手をやって軽く撫でた。
「寝ろ」
「うん」
 顔を近づけると、イタリアが頬に口付けようとしてくるのを感じ、ずらして唇を奪った。そのまま口を塞ぐ。押すほどに柔らかいので、一回だけと思っていたのに、もう一度深く口付けてしまう。小さな呻きが聴こえ堪らなくなり、今度は舌を割入れた。吐息を感じたが、いつも通りイタリアの舌は動こうとしない。上手い具合に触れ合ったのは、最初の一、二度ぐらいだろう。もう何ヶ月も前になる。
 そのうち、胸の前で握られていた拳にグッと力が入る。胸板を押し返してきた。イタリアにしては強い力で、離れたがっているのがわかった。仕方なく、掴んでいた二の腕を離す。気まずい沈黙が流れた。
 それから、イタリアは気を取り直したように明るい声で言った。
「じゃ、じゃあ……、おやすみー!」
「ああ」
 イタリアがはっきりそう言い背を向けてしまったので、ドイツもあきらめ、寝やすいように体勢を整えた。
 自分からこうして赴いたのに、躱されてしまったのは今日で三回目だった。
 どうして、とイタリアを責める気持ちがある。
 同時に自分のふがいなさも呪った。
 もっと経験があれば、何もかも順調に進んだのかもしれない。何らかのテクニックでその気にできたのかもしれない。反応されないだけならまだしも、最近では拒絶されている気がして、気が気ではなかった。
 想いを伝え合って、もう一年が過ぎようとしていた。
 それなりに楽しかったし、好きだという気持ちも変わらない。会えば嬉しく、世話を焼くのも好きだ。だが、当然あるはずだろうと思っていた、夜の生活だけがない。
 欲のある触れ方をするとイタリアは途端に引いてしまう。最初の頃は、ただ照れ臭いのだろうとばかり思っていた。
 慣れるまで待とうと思っていたし、今まで築き上げた関係を無下にしたくなかった。
 そんなふうに我慢し続け日々が過ぎてしまい、気づけば今日のような状態になっていたのだ。
 今まで、イタリアは泊まると必ずベッドに来ていたが、いつのまにかその頻度が減っていった。忘れてしまった、とか、疲れて寝入ってしまっただとか、様々な言い訳が付随するようになり、やがて理由を聞くのが嫌になった。
 今まで何度か、もう一息という場面までこぎつけたこともある。しかし大抵イタリアが無神経なことを言って、雰囲気を消してしまう。最初は、イタリアも緊張しているのだろうと考え、気にすることもなかった。こんな日もある、と……。しかしイタリアがわざとやっているのだと、そう気づいた時、裏切られたような思いがしたものだ。
 好意は伝えているつもりだった。だが何の進展もないことに、焦りばかりが増す。国、まして男同士でこんなにがっつくのは、変なのかもしれないとも悩んだ。本やインターネットに頼りたかったが、イタリアとの関係には、当てはまらない事の方が多い。
 何度か、無理にでも奪ってしまおうかと思った。だが壊れる物のほうが多すぎて選べない。イタリアがいつものように話しかけてこなくなったらと思うと、想像しただけで寂しい。
 ドイツは仰向けのまま、薄暗がりの天井を見つめていた。梁の凹凸を視線でなぞり、飽きてくると、右に寝ているイタリアのほうを盗み見た。肩はゆるやかに上下して、呼吸しているのがわかる。そっと肩を抱いた。肌は驚くほど滑らかだ。 友達だった頃でさえ、ふざけて唇を合わせることもあったのに、今はほとんど頬だけ。
 何かしようとするのはこちらばかりで、イタリアからは、ほとんど行動が無い。そのくせ、人前ではベタベタとくっついてくるので、困り果てていた。
「なあイタリア」
「んー?」
「……キスはいやなのか」
「え? …………や、じゃないよ」
「嫌なんだろう」
「どうして?」
 逆に問いかけられ、なんと答えていいのかわからなかった。イタリアは拒まないし、口で嫌だと言った事はない。けれど、嫌がっている事くらい、さすがにわかる。
「俺はどこか変なのか……?」
「ドイツ」
「何か不満を持っていたら……、言うといい」
「えーと……ない、かな」
「本当か? 何でも言っていいぞ」
「ないない」
「イタリア」
 思わず刺々しい声を発し、短くため息をついた。
「俺はある。おまえが、この手の会話を逸らそうとしてるのは、気づいてる。なあ、イタリア……」
 息を吸い込み、思い切って口にする。
「今のようなのも……、俺は好きだが。だがたとえ友達に戻ったとしても、俺たちの関係はそう変わりないだろう。それでもいいぞ」
 一つの選択肢を与える意味で、そう言った。逃げ道を用意してやったほうが、思ったままに物が言えるだろう。そもそも言い躊躇う事がある時点で、すでに健全な状態ではなかったのだ。気づくまでにずいぶんかかってしまった。
「ドイツ」
 部屋は暗かったが、イタリアが身を起こしたのがわかった。ちゃんと話をする気になったようだ。ドイツはようやく決着をつけられるのだと、迎え撃つような気持ちでいた。
「ドイツ……」
 その声が震えている事に気づいて、息を飲んだ。まさかと思い、身を起こして電気をつける。
 イタリアは泣いていた。ベッドに手をつき起き上がった姿勢のまま、じっとこちらを見つめている。
 すでに目が真っ赤で、頬には涙が伝い落ちていた。ドイツも合わせて身を起こす。
「おれ…友達がいい、ごめん」
 声にならないような声を上げ、泣きついてきた。遠慮無く胸板に顔を擦り付け、わんわんと子供のように泣く。
 たった今、友達に戻ってしまったのだと思った。
 そのうち嗚咽を漏らし始めたので、茫然自失のまま、なんとか背中をさする。想像もしなかった展開に、ドイツは二の句が告げず、目を泳がせていた。
「ごめんね」
「イタリア、どいういうことだ……」
「俺っ……、ドイツのこと好きだよ。でもセックスとかわかんなくて……」
「それは……」
「魅力がないとかじゃないよ。すげーかっこいいもん……。俺、大好きだから大丈夫だって思ってて、でも違ってて…」
 自分がしてきた努力の数々を思うと、どこかに頭をぶつけてしまいたくなる。
「何故黙ってた」
「いつか変わると思ったんだよ。でも……そのうちいっぱいキスするようになって、どうしたらいいのかわかんなくて……。あ、あのねキスは嫌じゃないよ? なんて言えばいいのかな……えっと」
「何故もっと早く言わないんだ」
「だってドイツ……」
「だってじゃないだろう……」
 怒っていたがショックの方が大きく、気の抜けた声でこぼした。イタリアは甘えているのか、それとも機嫌をとっているつもりなのか、頭をぐいぐいと首筋に擦り付けてくる。普段ならいい気分になれただろう。
「友達に戻れなかったら、やだったんだよう……。でもドイツがそう言ってくれて、俺、すげー安心した!」


 2

「資料はこれなんですが、あの〜」
 顔を覗き込まれ、ようやくドイツは頷いた。
「すまん」
 日本はドイツの視線の先をわかっていて、微笑む。
「今日はいつになく元気ですねぇ、イタリア君」
 会議後イタリアは、久々に顔を合わせたらしいスペインやロマーノと大いに盛り上がっていた。先ほどから笑い声がこっちにまで聴こえてくる。その輪にフランスまで入って行ったものだから、気になって仕方なかった。
「そうか? いつもあんなものだろう」
「そうでしたっけ、なんのお話でしょう。ずいぶん盛り上がっていますね」
「さあな。どうせ、ここで話すにはふさわしくない事だろう」
 ドイツは、わざと興味を失ったという姿勢を作った。それから日本と仕事の話をいくらかして、資料を鞄にしまい、雑談に入った。しばらく待ったがイタリアはやってこない。
「長引きそうだな……」
 正直もう、あの笑い声を聞いていたくなかった。
「先にホテルに戻らないか」
「そうしましょうか、疲れましたね」
 何の勘ぐりも無く日本が頷いた事にホッとする。余計な詮索をしてこない日本の性格は、今のドイツには嬉しかった。
 人の輪に近寄って一声かけると、イタリアが、わかったというジェスチャーで笑った。投げキス付きだった。頬がカッと熱くなる予兆がして、急ぎイタリアから目を逸らす。可愛さ余って憎さ百倍とはこのことだ。
 イタリアはあれから、憑き物でも落ちたかのように朝から晩までスキンシップ過剰になった。付き合う前はこんな感じだったと、こういうイタリアを好きになったのだと、今更ながら気付き悔しくてたまらなかった。
 だが、これが俗に言う失恋した状態なのかわからない。なんせイタリアは、ほとんど友情の延長で恋人になっていたのだ。今でもイタリアには欲情してしまう。あの夜、思い余って犯してしまう夢を何度も見た。
 あれからは、誰かと楽しそうにしているのを見ると、イタリアを貶めてまでも仲を引き裂いてやりたいという、強烈な嫉妬心が生まれた。
 以前は少しさみしくなる程度で、そこまで気にならなかった。
 醜いことだとわかっている。
 だが気持ちの行き場がなく、日に日に想いは強くなってしまった。側にいないとき、会いたい、顔を見たいという気持ちはもちろんある。
 だが矛盾するように、最近のイタリアのことが、何から何まで気に入らない。
 新しいタイは淀んだ色で似合わなかったし、ずっと欲しかったのだと言ったブーツも、どこか野暮ったかった。仕方ないと諦めていた二時間の遅刻は、何度か本気で叱り飛ばした。他には、すぐに物を忘れる、予定を立てない、愛想を振りまく……等。
 だが最もドイツを苛立たせたのは、以前と変わらないイタリアの明るさだった。ほんの少しくらい、しおらしくなるだとか、元気をなくすだとか、そういった反応を期待していた。期待しながらも、イタリアがそんな気を回す性格ではないと知り尽くしているために、なおさら虚しくなる。
 友達に戻ってもいいと自分から言ってしまった手前、ショックを受けていることはひた隠しにしていた。
「日本、行くぞ。イタリアは飲みに行くらしい」
「あ、はい。そうなんですか」
 日本はわずかに訝しげな表情を見せたが、すぐにいつも通りになってついてきた。
 たまたまなのかもしれないが、イタリアが社交辞令でも誘ってくれなかったことが不満だった。いつもうるさいくらいに、一緒に行こうと強請るくせに。
 日本の話に相槌を打ちつつイタリアへの文句を考えていると、いつのまにかホテルに到着した。
 
 

 ***

「ド、イ、ツー!」
 後ろから急に抱きつかれ、ドイツは肩をすくめた。ビールを二瓶と半分あけ、うとうとして椅子にもたれていたところだった。イタリアとは同室だ。昨日から連泊しているので、互いに一つずつカードキーを持っていた。日本も同じフロアにいる。
「びっくりしたぁー?」
 イタリアはずいぶん酔っているようで、上機嫌だった。頬は上気し、吐息がやや酒臭い。
「お帰り、遅かったな」
「あのねー、フランス兄ちゃんがぁ」
 早く寝かしつけてしまおうと、ドイツは立ち上がった。するとイタリアの足下に泥がはねているのを見つける。
「どこで汚して来たんだ」
「あ、ほんとだ。あれー?」
「とにかく脱げ。歯を磨いたら寝ろ!」
「はい! たいちょー!」
 脱がせたスラックスを手に、バスルームへ向かった。イタリアに歯を磨かせてから追い出すと、洗面台で泥汚れを落としにかかった。洗い終えると、軽く絞ってからタオルで水気をとり、天井近くに設置されている物干しにかける。
 脱衣所から出ると、すぐ足下にシャツが落ちていた。イタリアは途中で力つきたのか、絨毯の床に膝をつき、丸裸でベッドに突っ伏し寝入っていた。
「イタリア、ちゃんと中に……」
 ため息をつきながら近寄り、イタリアの脇を抱え上げベッドに乗せた。久しぶりの重みが、少し懐かしい。やはり肌は滑らかだ。
 だが次の瞬間、視界の隅に映り込んだ違和感に気づく。思わず目を奪われた。
 白い脇腹に並んで二カ所、赤っぽい痣が見えた。思わず指先で触ってしまう。よく見ると、虫さされではなく内出血だ。瞬時に頭へ血がのぼる。声を上げそうになったのをなんとか堪え、しばらくその赤みを見つめていた。
「イタリア……」
 フランスがどうだとか言っていた。ふざけただけか、もしくは何かあったのか……。
 もう恋人ではないのだから口出しをする権利はない。ただドイツは、自分が我慢し気を使ってきた様々なことを思い出し、唐突に空しさを感じた。
 もしかすると、自分の好意が重すぎたのだろうか……。そんな考えが頭をよぎる。
 想いを告げ、運良く快い返答が来たので、のぼせ上がってしまった、独りよがりな恋だったのだろうか。イタリアは気分屋だし、コロコロ気が変わる。それと同じように自分のことも……。
 そこまで考えて、頭を左右に振り、ため息を吐いた。
 体が目的だったわけではないのに、手に入らなかったからこんなにも執着してしまうのだろうか。他人の手が、自分の未知の領域を汚すのが許せない。こんな面倒なことになるなら、想いなど一生胸に秘めたままでいれば良かったと、額に手を当て俯いた。
 ふとんを掛けイタリアを隠してしまうと、窓際に戻って、もと居た椅子に力なく腰掛けた。残っていたビールを、瓶から一気に飲み干す。
 イタリアを傷つけるのは簡単だ。嫌いだと言えばいい。けれど、その言葉に傷ついた顔はどうしても見たくない。







 ***

 遡ること数時間前……。
「助かったわ。案内ありがと」
「いえ。何かお持ちしましょうか」
「じゃあ水とフルーツを頼む。あ、俺はワインね。なんでもいい」
「かしこまりました」
 給仕は笑顔でドアを閉める。大広間から廊下に出た時点でずいぶん音は小さくなっていたが、さらに壁一枚隔てると、もうほとんど喧噪は聴こえない。先ほどまで居た広間では、ひっきりなしの人の声と、銀食器や陶器のぶつかる微かな音、弦楽器の音色が混じり合い流れていた。
「まったくよ。羽目外しすぎなんだから、おまえは」
「いーじゃぁーん」
 二人は、フランスが懇意にしているレストランオーナー主催のパーティーに来ていた。
 スペインとロマーノは、もっと寛げるところで飲みたいと言ったので、フランスが近場でおすすめのビストロを教えてやって、途中で別れた。
 会場は、貴族の邸宅を貸し切っているのでとにかく広かった。
 社交に賑わう人々のなか、フランスは知り合いが多く、顔見せに忙しかった。
 一方イタリアは、交遊を広める気分にならず、だが料理は泣きそうなほどに美味しかったので、ほとんどテーブルに張り付いていた。肉を切り分けるためテーブルに居たシェフや、給仕と仲良くなった。
 フランスが最低限の挨拶周りを終え辺りを見渡すと、イタリアが遠く、部屋角の椅子に座り込み寝入っているのを発見する。人の波を躱し側まで行くが、肩を揺すり、声をかけても起きなかった。
 心配して近寄って来た細身の給仕に話を聞けば、イタリアは随分飲んでいて、眠る前は具合が悪そうだったという。


 イタリアは泥酔し、フランスにもたれかかって歩いていた。部屋の左にあったソファにイタリアを座らせる。だるそうに横になり、クッションを抱えてうつ伏せになった。
 その様子を見てため息をつく。
 ソファの横にあった椅子を、イタリアと話しやすい位置に持って来て腰掛けた。ノックがして、さっきの給仕が飲み物とフルーツの盛られた皿をテーブルに置く。多めにチップを渡して礼を言った。
「でもま、久しぶりだなこういうのも。今日はドイツ迎えにこないのか?」
「んー……。どこいくか、話してないよぉ……」
 言いながら、イタリアがワインに手を伸ばそうとしたので、フランスは慌てて取り上げた。変わりに水を持たせてやる。
「そっか、急に誘ったもんな」
「うん。皆いたから……、訊いてこなかっただけだよ、たぶん…」
 イタリアはうつ伏せのまま胸元のクッションに肘をつき、静かにグラスを傾けた。
「ふーん。あ……なあ、気になってたんだけど」
「うんー……」
「おまえらって、結局どっちがリードしてるわけ?」
「なにが?」
「セックス」
 イタリアは、数秒程フランスのニヤニヤ顔を見つめたあと、瞬きをし、前を向いて呟いた。
「してない……」
「あれ、そーなのか……ふうん……」
 以前怪しいと気づいた時に、イタリアからいろいろと聴いてしまっていた。
 二人は好き同士で、恋人という関係になったことも。聴いたのは、半年以上も前だったはずだ。
「俺たち、友達に戻ったんだー……」
「へええー……」
 フランスは意外そうに目を丸くし、大きく吐息を漏らした。
「そうかそうか。ま、元気出せよ……。よし、せっかくだから慰めてやろうか?」
 締まりのない表情で立ち上がったフランスは、イタリアの足下に無理やり座って覆いかぶさり、その手からグラスを取り上げテーブルへ置いた。早速シャツをめくり、白い脇腹と腰を撫でる。
 イタリアは体がだるいのか、特に抵抗もしないままぼんやりしていた。やがて肌に口付けると、不快そうに唸る。
「兄ちゃん、ひげいたい……」
「気にするな」
 目が合ったのでキスしようと顔を寄せると、イタリアはそれを手で押し止めてきた。
「お、嫌か」
「こーゆーちゅうは……俺ドイツとするからだめ……」
 拒否の言分が可愛かったので、フランスは思わず吹き出してしまった。
「えーっ、ドイツ専用かよ!」
「うん」
「はあ、本気なのね……。びっくり」
 イタリアは眉をひそめて、また俯く。
「でもよ、もう友達だろ。なら誰とキスしたっていい。あいつだって自由にやるさ」
「なんで……?」
「お預けくらいまくって、鬱積したものがあるだろうよ」
「でも俺……、ドイツが他の人とキスするのなんかやだよ」
「そりゃあおまえの我が儘だろ」
「でもやだよぉ……」
 涙声になったのを察して、フランスは身を起こした。今度は下心なく肩を撫でてやる。
「ほんとにおまえは……。あいつが待ってくれるからって、それに甘えてたんだろ?」
「ドイツがほんとにしたかったんならいつでも……」
「おばか、それじゃあおまえはしたくなかったってことだろうが。困らせてやるなよ」
「そーゆーわけじゃないよ……。俺だってムラムラしたし」
「じゃあなんでしなかったわけ?」
「……ドイツが、触ってくると心臓止まりそうになって。あと女の子みたいな声でちゃうんだもん。かっこわるくて。……恥ずかしくてさ、顔も見れないし」
「………それで、ドイツは……?」
「嫌なら我慢するって」
 フランスは天を仰ぎ、首を振る。大げさにため息をつきソファから立ち上がった。
「はぁ。もう、お兄さんが送ってあげるから帰んなさいな……。気分どうだ? ほら、せっかくだからこれ食ってけ」
 そう言いながらフルーツ皿を手に取り、カットされたメロンを頬張った。イタリアの口にも一つ押し込んでやる。すぐに飲み込んだので、もう一つ入れた。
「おいしいね……。ねえ、でもフランス兄ちゃん…、俺、やっぱり男同士のやつ教えてほしいかも……! 兄ちゃんとだったらなんでも出来る気がするし」
「なんでも出来ても、空しいもんよ。わかる? まぁ、俺はかまわないけど。そんな話聴いたあとじゃあね……。士気も下がるわ」
 フランスは交互に口へ放り込んでいたメロンの、最後の一個をイタリアに食べさせると、笑顔で言った。
「きっと今頃、ドイツはおまえに会いたくて泣いてるぜ」



 4

 イタリアが目を覚ますと、部屋は暗かった。
 一瞬どこだかわからなかったが、肌に触れるふかふかの寝具に、ホテルの部屋だと気付いた。
 とても喉が渇いている。ベッド脇の足下灯はついていたので、目を擦りながら足を下ろした。
 床は絨毯だったので、そのまま歩く。酔いが残っているせいか、足が少しふらついた。
(どうやってホテルまで来たんだっけ……)
 思い出せないまま、手探りで鏡台の上にある小さなランプを付ける。
 鏡台の並びには、腰までの高さの冷蔵庫がある。炭酸水を取り出し、一気に半分ほど飲み干した。程よく冷えた水分が喉を伝い、とても気分がいい。勢い良く飲んだせいで唇の端から溢れた水を、指先で拭う。落ち着くと、イタリアは一つのことが頭に浮かんだ。
(ドイツが、俺に会いたくて泣いてるんだっけ……。そんなことあるのかなぁ……)
 確かフランスに言われたような気がする。
 イタリアは振り返り、ドイツが居るはずのベッドを見た。人の形に中央が盛り上がっている。
 表情を見ようと、ドイツが顔を向けている右側に回り込んだが、暗すぎてわからなかった。
 頬に触れたくてそっと手を伸ばすと、明らかな湿った感触にイタリアは驚き、一度手をひっこめた。ペットボトルの結露で自分の手が濡れていたのかと思い、確認の為、指を舐めるとややしょっぱい。イタリアはシャツの胸部分で手のひらをよく拭って、もう一度ドイツへ手を伸ばした。頬だけでなく枕も湿っていた。
 きっとドイツとの性行為を、想像していたはずだった。
 恋人になったからには当たり前のことだし、抱き合うのは好きだったから障害にはならないと、そう思っていた。
 舌を絡める事にはそこまで抵抗がなかったが、下半身への愛撫はあまりにも生々しく、イタリアは驚いた。
 緊張して震え、自分がどうにかなってしまうような焦燥感が襲い、行為の間じゅう、俯いたままドイツの顔が見られなかった。心は追いつかなくても、体は直接的な刺激に悦ぶ。堪えきれず口から漏れる声は、まるで女のように上ずっていて、それを自分の意志で加減できないことに恐怖を覚えた。ドイツに聴かれていると思うと、消え入りたいほど恥ずかしかった。
 日に日に積極的になっていくドイツに悪いと思いながらも、なかなか気持ちを言いだす事が出来ずにいた。
 関係を絶ったとして、その後友達に戻れるのか、という大きな不安が消えない。
 もう少しすれば、セックスをしたくてたまらなくなるかもしれないと考え、ドイツの誘いをのらりくらりと躱すことが日常になった。迫られるのは、必要とされているのだとわかって気分が良かったが、差し引きしても悩みのほうが多く、憂鬱だった。
 何も考えず、怯む事無くドイツに抱きつきたいし、家に泊まりたい。一緒に遊びに行きたい。後頭部の匂いを嗅ぎたい。
 そんな日々が戻ってくればと願っていた矢先、ついにドイツが友達に戻ろうと言った。イタリアにとって久々の、気兼ねなく隣で眠れた夜だった。
 恋人でなくなったこの数ヶ月は、開放感があり物怖じせずなんでも言えて、どこにでも行けた。だが今日のように、ドイツは動向のあれこれを深く訊いてこなくなった。
 そのことが、少しだけ寂しいと感じたのは事実だ。
 付き合う前はどんな具合だったか、今となっては思い出せない。
 もとに戻っただけなのか、それとも距離を置かれたのか。
 ドイツは近頃不機嫌なことが多く、ひどく叱られた事が何度かあった。
 だいたいは泣いてごまかしたが、たまに会話の中で、本当に嫌われてしまったのではないか、という心持ちにさせられることがあって、イタリアは怯えていた。これ以上関係が崩れるのが嫌で、ドイツに会いたくない日もあった。
 そんなふうに思うようになったことがショックで、だがはっきりとした原因は突き止められず、考えないよう目を逸らし続けてきた。メロンを食べている時、フランスに、あっというような解答を聴いた気がしたが、酔いの為かすぐに思い出せないのがもどかしい。
「ごめんね……」
 何故謝っているのか、イタリア自身よくわからない。
 ただ、こんなふうにドイツを泣かせてしまったことを思うと、謝らずにいられなかった。自分の出した言葉に胸が詰まる。
「なっ……! なんだ」
 頬に触れていた手を急に払われ、イタリアは驚いてベッドから身を引いた。
 ドイツが素早く身を起こす。
「イタリア。……何してる」
 ひどく狼狽えたドイツの声を聴き、まずいことをしてしまったと、心の中で舌うちをした。涙を拭っていたなんて言ったら、ドイツは烈火の如く怒るだろう。
「ただいまー……。なんか目が冴えちゃって。喉も渇いててさ」
「おまえ、寝る前はベロベロだったからな。あたりまえだ」
「そっかー、ごめん。ここに帰って来たのも全然覚えてなくて。フランス兄ちゃんが送ってくれたのかな?」
「知らん。一人で勝手に入って来たぞ」
「へー……」
 沈黙があり、手持ち無沙汰になってペットボトルに口をつけた。
「じゃあ、おやすみ」
 そう言って、ぎこちなくもう一つのベッドへ移動する。
 二つ並んだベッドの中央にあるナイトテーブルに、ペットボトルを置き、そのまま自分のベッドに腰掛け、ふとんに潜ろうとしたところで呼び止められる。
「イタリア」
 嫌な予感がする。
 叱られる前の雰囲気と似ていて、早く寝てしまいたかった。
「おまえのスラックス、足下に泥がついてたから洗ったぞ」
「そうなの? ありがとう」
 イタリアはホッとし、笑顔で礼を言った。
「転んだのかなぁ」
「フランスと一緒にいたのか」
「うん、兄ちゃんの知り合いの……レストランのパーティーだよ。俺ほとんど食ってただけだったー」
「ロマーノ達は?」
「そういうのは堅苦しいからって、途中で別れたんだ」
「そうか」
 ドイツはそれきり、何か思案しているような表情で、ベッドの足下を見つめていた。ますます動悸がして、寝てしまいたくなる。眠くなった事を伝えようと、わざと大きなあくびをした。
「……じゃあ、おやすみー」
「イタリア」
 急に、ナイトテーブルの上にある照明が輝く。二人のベッドは端まで見渡せるようになる。もちろん、ドイツが点けたようだった。
「な……なに?」
 ようやく横になって、ふとんをかぶったところだった。さすがにまだ寝たふりをできる段階ではない。
「目が冴えたと言ってたな。少し話さないか」
 あくびの真似なんて、ドイツの目には入っていなかったのかもしれない。真面目な表情だったので、イタリアは頷くほか無く、寝転んだままドイツのほうへ顔を向けた。
「ドイツ、眠くないの……?」
「ああ」
 それから一向に話し出さないので、イタリアは心配になる。ずいぶん言い躊躇っているので、どんな言葉が飛び出すのかと思うと気が気で無かった。
「……その、お前の腹に痕があるが、それは一体なんなんだ?」
「えっ……」
 反射的にふとんの中で腹を触る。
 思い当たる事などない。体を起こして見下ろすと、左の脇腹に、ややくすんだ赤い痕が二つある。腹は色が白いので、とても目立っている。
「えっと」
 考えてみても、どこかにぶつけた記憶はない。状態としては、内出血のように見えた。そこでイタリアは、フランスのひげが腹にチクチク当たって気になったことを思い出し、合点がいった。
「隠しもしないで……。俺が、見てどういう気持ちになるか少しも考えないのか、おまえは。無神経なやつだ」
 ドイツは憤怒しているというわけではなく、感情を抑えながら、淡々と静かに喋っていた。イタリアは、それが逆に恐ろしく、自分の発した声が震えるのがわかった。
「これはー……別にそーゆーこと、したわけじゃなくて…」
「ならどういう経緯でつくんだそんなもの」
「フランス兄ちゃんがえっちしようって言って」
 頭がまわらず、ついそのままを言ってしまい、慌てふためき顔の前で手を振った。
「あっ違うよー! それは冗談で結局してないんだけど……、ほんとに」
 懐疑の目を向けられ、イタリアは言葉を重ねる。
「ほんとだよ」
「どうだかな。……帰ってきた道も覚えてないと言ったろう」
「酔ってたけど、そのときはちゃんと喋ってたし、覚えてるし……」
 ドイツは大きくため息を吐き出した。
「聴きたかったのはそれだけだ」
「ほんとだよ、ドイツ」
 ドイツはナイトテーブルの照明を消し、横になってしまう。イタリアは、ドイツがまた泣いてしまうのではないかと想像し、胸が痛かった。
「……俺に義理立てする必要はないぞ。フランスだろうが……誰とやろうがおまえの自由だ」
「そっ…、そんなふうに言わないでよ」
「何か間違ってるか」
「……ううん。俺たち……、友達だもんね」
 ドイツの背中に呼びかける。
「そういえば……フランス兄ちゃんも、同じような事言ってた。ドイツが誰とキスしても、俺は口出ししちゃいけないって……」
「……もう俺の話はない。それを聴きたかっただけだ。……おまえが裸でうろうろしていると嫌でも目につくからな。それだけだ。おやすみ」
 ドイツはもう話す気がないらしく、一方的に言葉を切った。
 イタリアは、このまま寝てしまってはいけないと思うが、何を話したらいいのかわからずに、なかなか言葉がでなかった。部屋は暗い。鏡台の上のランプが付けっぱなしだったが光源が遠いので、起きた時よりはほんのり明るい程度だった。
 暗いというだけで悲しくなってしまうのは、まだアルコールが抜けていないからかもしれない。自分の頬に涙が伝うのがわかった。
 気持ちをどう言葉にすればわからない今こそ、ドイツの体を抱きしめたかったが、ベッドに上がれば叱られてしまうだろう。
「ドイツ……、さっき泣い」
「泣いてない」
 その声を聞き、イタリアは静かに隣へ移動した。膝をついて乗り上げると、気付いたドイツが肩越しに振り返る。イタリアは間髪入れずに抱きついた。半分覆いかぶさるような状態で、ドイツの腹に手を回す。
「おいやめろ!」
「ドイツ……、俺とえっちする……?」
「な……」
 ドイツの腕の力が弱まったので、もう一度しっかりとしがみついた。
「俺がフランス兄ちゃんと、えっちしたかもしれないから……怒ってるんでしょ?」
「そっ……そういうわけでは……ない」
「ドイツが俺の体……確かめてよ」
「ばかもの……!」
 ドイツは声を荒げた。しかし冷たくはなかったので、アプローチが間違っていなかったのだと安堵する。
「なんなんだ。おまえは……、俺とセックスする気にはなれないと、あんなにはっきり……! 言ったくせに。冗談を言っていたら許さんからな」
「うん……ねえドイツ怒んないでね……」
「もう怒ってる……」
「俺、ドイツとえっちなことすると……、自分じゃなくなっちゃうみたいな気がしてこわかった。一度だけ、触り合いっこしたことあったでしょ……」
 イタリアは、今思い出しても恥ずかしい。
 ドイツの性器にちゃんと触れたのは、また、自分のものに触れられたのはその時が初めてだった。そしてそれ以降、触れる機会をなんとか躱すように努めてきた。
「あのときの俺、すごく変だったから……やだったんだ」
 おとなしくなったドイツの背に額を付ける。
「…………別に、変だとか、そんなことは思っとらんぞ…。何が変なんだ」
「もうとにかくダメなんだ……。恥ずかしくて……、ドイツの顔も見れなかったし、どっかに消えちゃいたいくらい、体が熱くて……、苦しくて……。俺、自分がめちゃくちゃダメな奴ってかんじがして……情けなくて」
「イタリア……」
「あんなことが続いたら、俺、そのうちドイツとハグ出来なくなっちゃうような気がして……」
 ドイツはそのうち、体ごとこちらに向き直った。イタリアは勇気を出して目を合わせる。
 淡いブルーの瞳は、色もよくわからない。
 なのに、自分がすっぽり包み込まれたような錯覚がして、腰のあたりから何かゾクゾクとしたざわめきが起こるのを感じた。
 二人は、寝転んだまま向かい合うような姿勢になっていた。
「まだ聞く?」
「ああ……あるなら」
「俺の……そのさ……。そういうとき声がすごく変っていうかさ……、なんか、女の子みたいじゃない?」
「もとからおまえ、声は高いほうじゃないか」
「そうだけど……なんかかっこわるいから……」
 ずっと話してみたかった事を言えて、少し気持ちが和らいだ。ドイツの呆然とした様子からすると、あまり気にしていないのかもしれない。
 手のひらがイタリアのこめかみに触れた。
「かっこ悪い……か。俺しか聴いていないのに、そういうふうに思うのか……」
「ドイツに一番聴かれたくないよー……」
「だがそれでは」
「うんでも、フランス兄ちゃんには、我が儘だって…甘えてるって言われた。でも俺も、自分が恥ずかしいからって理由言わないの、ひどかったって思って…本当にごめんね」
「おまえ、フランスに相……、いや、まあいい。俺も気づけなかった。悪かった。おまえがそんなふうに感じていたなんて……。俺は、自分に原因があるのだろうとばかり」
 ゆっくりとドイツの手が頭を撫でる。
「ううん、俺、ドイツが訊いてきた時も、恥ずかしくって隠してたから……。俺が悪いと思う」
「そんなことはない。セックスがしたいだとか、それだけで恋人になったわけじゃないのに、そういう目でしかおまえを見なくなっていた。なぜ抱かせてくれないのかと、会う度そればかり考えていた。…だから気づけなかったんだ。すまん」
「ドイツ、違うよ、俺が悪いの……、俺がずっと逃げてたんだから」
「おまえの性格はよくわかってる。すぐ逃げたがることももちろん。それなのに気をまわせなかった俺が」
 人差し指をドイツの唇に押し当てた。ドイツは黙り、イタリアは再び口にする。
「えっちする……?」
「だが、いいのか? 要するに…いろいろと不安になるんだろう」
「うん……。でもいい」
「声も聴いてしまうな」
「すぐ忘れてね」
「言っておくが、おまえの声は……、と、とても良いからな。綺麗だし……、高くなっても似合っていると思う。おまえが俺の手で……、そういった声を出す事が俺には嬉しいのであって、声質の問題ではないだろう。俺はおまえのことが………、好き、だからな」
「ドイツー……!」
 思わず、ドイツの首筋に顔を擦り付ける。
「最近すげー怒ってたから、俺、嫌われちゃったのかと思ってた……、良かったぁ」
「そんなわけないだろう」
「ねえねえ、ドイツ起きてよ」
 イタリアは手をついて起き上がり、ドイツにそう促した。訝しげな顔でのろのろ起き上がったドイツに向かい、大きく手を広げ抱きつく。胴に腕を回すと、数ヶ月前と寸分違わない温かさが伝わってくる。唖然としていたドイツも、数秒後にようやく、イタリアの体を受け止めた。
「こういうハグ、しばらくしてなかったね」
「そうだな」
「気持ちいい……」
 ドイツは、ぎゅっと力を入れ抱きしめてから、背をゆっくり撫でてくる。
 懐かしい感触に震えた。背を上下に行ったり来たりするだけだが、そこから何かフェロモンでも出ているのではと疑うほどに、体の芯まで感じ、悦に入った。
 引き寄せられるように、ドイツの唇を求める。軽いキスだけでも、下半身にずしりと欲が集まるのがわかった。
「ねえ、なんでもドイツの好きにして」
 しばらく見つめあうと、ドイツが腰に手を回し、体重をかけ押し倒してきた。体の下へ組み敷かれると、かつて無いほどの愛しさがこみ上げてくる。
 今日はきっとどんなことをされても、怖じ気づいたりしないだろう。

                 2011.04.25〜05.28(2012.03改稿)


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