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「ふぉおお寒い!」
 店を一歩出ると、体の芯まで冷やすような風が吹きつけた。思わずドイツの腕に掴まろうとしたが、子供っぽく思えてやめてしまった。こんなに雰囲気のある店で食事をしたあとには、なんだかそぐわない。イタリアは、コートのポケットに手を突っ込む。
「イタリア、手袋は?」
「今回持ってくるの忘れちゃったんだ。新しいの買ったんだよー、見せたかったな」
 ドイツは自らがはめていた焦げ茶の手袋をとり、2つ束ねてイタリアの腕に押し付けた。
「貸してやる」
「いいの?」
 ドイツはマフラーもしているが、鼻先は赤くなりつつある。イタリアは、礼を言って手袋を返した。
「すぐそこだしいいよ」
「今日の夜から、しばらくは雪だと言っていたぞ」
「ヴェー」
 そんなやりとりをしているうちに、イタリアの泊まっているホテルに着いてしまった。今の二人に、五分の道のりは一瞬である。ドイツは重いガラス戸を押しイタリアをエントランスに入れると、立ち止まって声をかけた。
「じゃあ俺はここで」
 イタリアは驚いて振り返る。
「泊まって行かないの?!」
「さっき尋ねたが、もう部屋に空きはないそうだ。俺はオーストリアのところに寄らせてもらうことにする」
「そっか……」
 結局イタリアもまた外へ出てきてしまった。朝まで一緒にいると思い込んでいたので、急に寂しくなる。
「お金払えば、俺の部屋に寝ていいんじゃない?」
「シングルだろ」
「いいじゃん」
 ドイツは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ここの支配人とは知り合いだ。……今後使いづらくなる」
「じゃ、エキストラベッドいれてもらえないかな? それなら問題ないよね」
「オーストリアの家に、俺が気軽に泊まれるのも知られているんだ。ここから二十分もあれば着くんだし、そこまでするなんて不自然だろうが」
「じゃあさー、俺が風邪ひいてて、看病が必要だってことにしようよ。どうどう?」
「……まぁな、まだ目がはれぼったいし……、そう見えなくもないな。…だが、そこまでして」
 イタリアは少し恥ずかしくなる。けれど、ドイツだって本当は一緒に居たいのだと、思いたい。
「風邪は嘘かもしんないけど、でもさ…、ドイツが帰っちゃったら、また泣いちゃうよ」
 必死に懇願していると、しばらくしてドイツが頷いた。
「……おとなしくしているんだぞ。一言もしゃべるなよ。受付では俺が全部説明するから」
「了解であります! 嬉しいよぉ……!!」
 思わず抱きついてしまうと、ドイツは強い力で引き剥がし、小声で言った。
「おい、そんな笑顔でどうする……!」
「そっか」
 イタリアは無理矢理ため息を吐き出し、役者にでもなったつもりで悲しみの表情を作った。だがどうしても口の端が上がってきてしまう。
 ホテル内部からの柔らかな明かり。辺りに漂う、きんとした夜霧の香り。お腹はご馳走で満たされている。幸せだった。その上、これからドイツと一緒に眠れるのだと思うとワクワクしてしまう。いつ手を握ろうか、イタリアは考えていた。冷えてしまったし、部屋に入ったらバスタブに湯を張って温まりたい。ドイツと一緒に……。ドイツはきっと照れて嫌がるだろうと思い、イタリアは悪戯っぽく笑った。絶対に一緒に入ってもらおう。
「イタリア……」
 ドイツは呆れた様子で見ている。
「だめだー、俺、笑っちゃうよー」
「じゃあ俯いていろ、いいな……?」
「ねえ、俺、ドイツの横顔大好き」
 ドイツがわざとらしい咳払いをする。
「すごくカッコいいよ。もちろん正面から見た顔も好きだけど」
「おい」
「そのコートすごく似合ってる。やっぱりさ、肩幅あると違うよね。好きだよ」
 ドイツは、ちらっとイタリアを横目で見て、また咳払いをした。
「さっきさ、手袋貸そうとしてくれたでしょ。俺、ドイツのそういうところが好き……!! 大好き……!! 歩き方も好きだしね、声も好き……。ドイツがご飯食べてるとこ見るのも好き。だからね、こんなに好きだから」
 イタリアはもう一度、思い切りドイツの胴に抱きついて見せる。
「ドイツのこと考えると、俺、ドキドキしちゃうんだよ……。ドイツがかっこいいから」
「……わ……、わかった。わかったぞ…。ありがとう……。中に入ろう。ほら、下を向け」
 ドイツは耳が真っ赤だった。それを見てイタリアは満足気ににまにまする。
 腕を引かれるままに、ドイツのあとをついていった。誰とも目を合わさずに、足元を見つめて歩いた。イタリアの提案どおり、部屋にエキストラベッドを入れてもらえることになる。
 二人は先にイタリアの部屋へ向かう。ロビーを抜け階段に差し掛かると、イタリアは、そっと顔を上げて隣に微笑んだ。
 部屋に入って、手を洗ったりコートを脱いだり、服を着替えたりしている間に、エキストラベッドが運ばれてきた。折りたたみ式のものだ。
 もとからあったベットと平行になるように並べられる。窓際に置いてあったテーブルセットが邪魔だったので、反対の壁際に寄せられた。メイキングをした係員が出ていくと、イタリアはそこに腰掛け、具合を確かめた。
「あ、そんなに悪くないよドイツー。すごいね。昔ってこういうの、もっと硬いクッションだったよね」
「イタリア」
 ドイツは隣に腰掛け、肩を抱いた。見つめ合い、イタリアも力を抜いて寄りかかる。
「俺、風邪引いてるんだっけ」
 ドイツの膝上へ横向きで寝転がった。腿と腿の間に顔がくるようにずれる。筋肉質であまり柔らかくはないけれど、温かい。自分だけの場所だと思える。つい数時間前は、一人で大泣きしていたなんて信じられなかった。膝枕でうとうとできるんなんて、夢のように贅沢だ。
 ドイツの手が頭を撫でてくる。こんな感触も久しぶりで、あの、アップルクーヘンを食べた日以来だ。いつのまにか日常になってしまっていたけれど、ドイツが撫でてくれるのも、二人が一緒にいて、しかも良好な関係でないとできないものだったのだ。思えば、いろいろなことが当てはまる。体の関係を持つずっと前からそうしていたのに、何故忘れてしまっていたんだろう。
「ドイツ……、アップルクーヘン、また作ってね」
「もう腹が空いたのか、あれだけ食ったのに」
「違うよう」
 イタリアが起き上がると、ドイツの顔は目と鼻の先だった。顔を傾けたらキスが出来る。あまりにも急に近づいたためか、ドイツは後ろに手をつき体をそらせ、距離をつくる。イタリアはそれを追いかけた。
「俺思ったんだけど」
 ドイツの厚い胸板に手を這わせた。布一枚隔てて、鼓動が伝わってくる。
「前はさ、普通だったじゃん? 膝枕したり、添い寝してくれたりさ……、抱っこして本読んでくれたり…。お風呂もたまに一緒に入ったし、着替えも手伝ってくれたし……、そういうの俺、特別なことって思ってなかったんだけど」
 ドイツの腿に座りなおした。迫ると、ドイツは押されるままに後ろに肘をつき、仰向けに倒れる。
「ドイツに電話しようか迷ってる間、会わない間も……、そういうことばっかり思い出してたんだ。今度は俺がドイツにしてあげたいって、思ったんだ」
「イタリア……」
 ドイツの目は潤み、淵は心なしか赤くなっているように見える。
「今まで、なんで好きっていってくれないのかなと思って寂しくて、拗ねてばっかりいたけど…」
 唇に、ちゅっと音を立ててキスをする。
「気づかなくて、ごめんね……」
 目を見つめていたが、ドイツが呆然として何も言わないので、照れくさくなってしまった。今度こそ体を押し倒すと、胸板に頬をくっつけ、寝そべってみる。顔を近づけた時、本当はドイツからキスをして欲しかったけれど、うまくいかなかった。こういうときは……
「あーん、ドイツ大好きだよぉー! すきすきー!」
 頬ずりとともに思い切り体の上でバタバタしてみたが、なかなか効果がでない。
「ドイツっていいにおいだね、すっげーいいにおいだね…!!」
 そう言いながら首筋を鼻息荒く嗅ぎまわってみたが、だめだった。だがしばらくすると、ドイツは体を起こし、イタリアの肩を押して遠ざける。
「……せっかくホテルだしな、バスタブに湯をはろうか」
 さすがのイタリアも、これが一緒に入ろうという誘いなのはわかった。
「うむうむー! 俺やってくるね!」
 先にベッドから降り、意気揚々と浴室に向かう。蛇口を調節してひねり、バスタブにお湯がたまるのを眺めていた。湯気がもわもわと室内に広がっていく。
 彼女とランチをしたあとの高揚とは、比べ物にならなかった。長い長い片思いが、ようやく成就したような、だがまだ何か少し足りないような……。
 けれど足りないところは、これからドイツが埋めてくれるのだとわかっている。のんびり寝転んでいても春はくるのに、イタリアは浮き足立って仕方ない。ドイツに何か話しかけなくては、と居ても立ってもいられずに浴室を出て、洗面所を通りすぎ、ベッドルームへ顔を出す。
「ドイツドイツー」
 ドイツは窓際のエキストラベッドに腰掛けたまま、何もせずぼうっとしていた。
「湯が出ないか?」
 目が合うとすぐに立ち上がって、イタリアのほうに歩いてくる。イタリアは微笑んだ。名前を読んだだけで、ドイツはそばに来てくれる。どうかしたのかと、気にかけてくれる。それだけのことが、なんて幸せなのだろうと感じた。
「ううん、大丈夫」
 ドイツは浴室へ確かめに入り、戻ってきてイタリアと目が合うと息を吐いた。そして何も言わず服を脱ぎだした。イタリアも頷き、けれどやっぱり少しだけ、胸のことが気になる。
「ドイツ」
 上半身裸になっているドイツの手首を掴み、イタリアは自らの胸元に引き寄せた。触ってもらうと、恥ずかしさも若干ある。だがそれよりも、手の感触が愛しいという感情のほうが優っている。
「ドイツ、大好きだよ」




その後
2011.11.29