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 ドイツが出て行ってしまうと、イタリアはとぼとぼとベッドまで戻った。うつ伏せに倒れこむと、感情の波が一気に押し寄せてきて、止めどなく涙が流れる。
 結局、なんでドイツがあんなところで口淫しようとしたのかは、よくわからない。
 ただ『嫌だ』と言ったのに聞き入れてもらえなかったことは、イタリアの心に大きなわだかまりとなり残っていた。軽んじられているような気がしていた。
 力では負けてしまう。なのに意見を聞いてもらえないのでは、もはや公平ではない。強引な態度が少し怖かったのも事実だ。ドイツは謝ってくれたが、行為の前にはハグもキスもなかった。
 もちろん愛の言葉もない。これでは極端に言えば、相手は誰でもいいようなものだ。いつか考えたセックスフレンドという概念も、あながち間違ってはいなそうだ。
 話を聴いて、ドイツの今の気持ちは充分にわかった。
 ドイツには、イタリアを引きとめようなんて気持ちはなく、体の関係を一気に精算したかったようだ。改めて、どういう関係を結んできたのか思い知らされた。ドイツがどんなスタンスでセックスをしていたのか。
 イタリアに彼女が出来れば、すんなり身を引きと見送って、勝手をしたことを咎めもしない。去る者は追わないのだ。ドイツが追いかけてしまうほどの魅力を、イタリアは持っていない。格好悪く思えてとっさについた嘘も、ドイツの本心を知ってしまえばなんて虚しいのだろう。彼女とはもう何もないのだということを、正直に言えば何か変わっただろうか。
「ヴェ……」
 あとからあとから涙が溢れる。
 ドイツと話している時も既に涙は出ていたが、そんなことはしょっちゅうあるので、気に止めなかったようだ。
 ジタバタとベッドの上を転がってみても意味はなかった。
 今朝考えた予定だと、今頃はドイツとディナーまでの時間を、どこかで談笑しつつ潰している頃だ。
 イタリアはドイツを誘い損ねた時点で、知人を探しディナーに誘おうと思っていた。だがすっかりそんな気力がなくなってしまった。
 これから店に電話をして事情を話し、金は予約分払って、一人前だけ食べてこよう。楽しみにしていたディナーとはかけ離れたものになってしまったが、仕方ない。
「ドイツ……」
 携帯電話のことを注意されていたと思いだし、寝転がったまま、足先を使って床に落ちていた皮の鞄を拾った。胸元まで引き寄せ、書類の底に埋もれた携帯電話を取り出した。すると、タイミングよくドイツから着信がきている。
 イタリアは驚いて上半身を起こし、画面を二度見した。すぐに通話ボタンを押す。
「ちゃんと鞄から出したようだな」
 イタリアは返事をしようにも、泣いてしまって普通の声が出せないと気づいた。
「ん」
「充電もしておけよ」
 ドイツがこんな時に限ってやけに優しい声で言うので、イタリアは感極まってしまう。嗚咽を我慢しているので喉がひくひく震えて痛い。
「イタリア、聴いてるか?」
「ドイツっ……、いっしょに、食べに行こうよ………、ごはん」
「なんだ…? 泣いているのか」
 続けて言葉を発しようとしたが、上手くしゃべることが出来なかった。
「どうしたんだ……? イタリア」
 ドイツが怪訝そうな声で尋ねてくる。答えることが出来ず、しばらくえぐえぐ唸っていると、ノックの音がした。イタリアはびくりと体を震わせドアのほうを見る。しばらくしてもう一度ノックがあった。
「イタリア? 戻ってきた、部屋の前だ」
 廊下の声からわずかに遅れ、携帯電話からも同じ台詞が聞こえる。
 イタリアはベッドから立ち上がった。ドアの前へ着くと、すぐに鍵を開けドアを引いた。
「チェーンをかけて……、服を着て出ろ」
 顰め面のドイツに勢い良く抱きつこうとすると、ドイツは肩を掴み押しとどめる。
 涙に濡れたイタリアの顔をじっと見て、大きなため息をついた。
「一体どうしたんだ。夕食の相手はダメになったのか?」
「ううん……。もとからっ……うぐ、誰も誘って、ないよ。……ドイツ、と行こうと思って…たっ……から」
 ドイツの眉間の皺はますます深くなる。
「どういうことだ」
「……さっきまでは……、ドイツと行きたくっ……、ふぇっ……、なくって、ごめんね」
 ドイツは口を開きかけたが、すんでて息を飲み込み、そして申し訳なさそうに言った。
「そうか俺が、あんなことをしてしまったからだな。悪かった……。だが、一緒に行くと言いたいところだが……、俺も無理だ」
「ヴェっ……なんで? うぐ……、これから、予定ある?」
「料理はコースだろう? 悪いが、……俺はとてもそんな気分ではなくて、帰ってビールでも飲んでさっさと寝たいんだ」
「そっかぁ……」
 イタリアが頷くと、ドイツは首を振って言葉を重ねた。
「いや違う……! すまん、色々と考えなくてはならないんだ。おまえとさっき話したことを。一人で……、考えなくては」
 ドイツは、深い溜息を吐いた。
「泣いているお前を置いて帰るのは心配だし、できれば一緒に行ってやりたいんだ、だが」
「い、行こうよう……、お願い」
「決して意地悪を言っているのでなく、俺の精神的な問題で……、思ったよりショックというか、お前と話しているのが……。どうにかなってしまいそうで……俺は……。いや、とにかく今日は無理だ。すまん。あまり泣くなよ、明日、顔がひどいぞ」
 ドイツはそう言って部屋を出ていこうとする。イタリアはたまらず、コートの裾を掴んで引き止めた。
「待っ…て…! どいつ」
「俺だってもちろん想像はしていたんだ。おまえが彼女と付き合っているかもしれないということは。だが実際に、こんな気持ちになるとは……」
「あっ! うそうそ、付き合ってない!!」
 イタリアは慌てて訂正した。ドイツが俯いたまま固まる。
「う、嘘ついちゃったんだ、ヴェヴェ…、ごめんね。なんかすげーカッコ悪いからさ……」
「どういうことだ……」
「パーティーでね。実はうまく…いかなくて……」
「……イタリア!!」
 ドイツは部屋中に響き渡るような、張りのある声を出し振り返った。
 さっきと同じように、イタリアの肩をしっかりと掴む。
「そっ……それは本当なのか??」
 迫力にたじろぎながら、イタリアはこくこくと頷いた。
「う…うん。ほら…! 朝にほんから電話がきたから……、そのことばっかり考えて、俺ぼーっとしちゃって……」
「本当だな」
「ほんとほんと」
「おまえは…、まだ彼女を好きだとか、そういうのはあるのか」
「ううん…。楽しい子だったけどね」
「そうか」
 ドイツは一人で頷いていた。
「本当なんだな、イタリア」
「ほんとだよ。神に誓って」
「おまえが好きだ」
 ドイツは耳まで真っ赤になっている。
 イタリアは聴いた言葉が信じられずに、目を丸くした。ほんの一瞬だったが、時が止まったように感じられた。
「ど、ドイツ……」
「じゃあな」
 ドイツは背を翻し、再び廊下にでた。
「待って待って」
 イタリアは咄嗟にドイツの腹に抱きつく。
「ねえ待って! 今、好きって言った? ドイツ俺のこと好きって言った?」
「ああ……好き、だ」
 低く、小さな声だが確かに聞こえた。胸の中にむくむくと、温かいものが広がっていく。
「俺もドイツのこと好きだよ!」
 ドイツの顔がますます顔が赤くなる。腹にまわったイタリアの手を、やんわりと掴んで外した。
「好きだけじゃない………、おまえを抱きたいんだ」
「いいよ…!! ドイツ!」
 ドイツの顔だけが振り返る。
「…嫌なのではないのか?」
「ん……? あっ……そっか。そうだったね………」
 イタリアは、ポルノ雑誌の件を話していなかったと思い出した。この際だから何もかも話してしまおう。
「あのね、俺もドイツに言おうと思ってたんだけど……。ドイツのさ、ベッド下のエッチなものが入ってる箱……、を見たんだけど」
 おそるおそる口にすると、案の定ドイツの罵声が飛ぶ。
「……みっ、見るなと言っただろうが……!! ばかもの!!!!」
「わぁーん! ごめん……、ごめんね……。だって隣と入れ替わってただけだったから、わかっちゃったっていうか。それでさ、前に見て叱られたときは、SMものばっかりだったよね」
 ドイツは黙ってイタリアを睨んでいる。
「でも今は巨乳のやつが多くなってて」
 今度はため息と共に俯き、片手で顔を覆ってしまった。
「俺、頑張ればSMならできるかもしんないけど、巨乳は無理だし」
「言っておくが…、特別大きいのを好んでいるわけでなく、胸を中心としたものになると、そういったものに需要が多いためか、絶対数が多いので、必然的にそうなってしまうだけだ……」
「でも、胸が好きなんでしょ…?」
「想像と現実は別だ。例え明日、雑誌にでるようなガールフレンドができたとしても……、まぁ、多少興奮するかもしれないが、ただそれだけだ。体しか見ていないんだからな。おまえは男なんだし…。比較する必要はない。胸を揉みたいんなら、そもそも女性を相手にしているだろう」
 言いながら、ドイツは何か思い出したのかひどく焦っていた。
「お……おまえ! だから寝るときにシャツを着ていたのか。す…済まない、俺はなんて……」
「あっ、いいんだよ、それは気にしないでー!」
 イタリアもあの夜のことを思い出すと恥ずかしくなってしまう。ドイツはそれからも、何か思い当たることがあるようで、青くなったり赤くなったりを繰り返していた。
「とっ…! とにかくだな。お前を好きなことと、胸は全く関係ない。あるなしで…好きになったりしない。俺のフェチズムの一部であるのは認めるが、だがSMだって、おまえとしたことはないだろう?」
「……そっか」
「そんなに気にしていたんだな。早く言えばよかったのに」
「だって、ほんとは見ちゃいけないじゃん…だから」
「今度から、見てしまったら言っていい。悩むくらいなら……。わかったな。だがそもそも見るなよ……」
「うん……」
「あとは…?」
「あと?」
「他にも、いろいろあるんだろう…、俺の嫌なところや、問題が」
「……ヴぇ? 他には……ないけど」
「セックスを拒否したのは……それだけの理由だったのか?」
「うん……」
「本当に? そっ……それだけのことで……俺たちは」
 ドイツはわなわなと震えだしている。
「ヴェー……、それだけのことって言うけどさ、ドイツえっちのとき、俺の胸揉んでるよね??」
「そっ…、そんなことはない!」
「こーやって後ろから手を当ててる時とかにぎゅって。だから……、あんなエロ本あったし、ドイツおっきい胸が揉みたいのかなーって思って……。そしたら、俺、触られてるのすげー恥ずかしくなっちゃってさ。俺としながらドイツが、そんなこと考えてたらどうしようって……、そしたら怖くなって」
 イタリアは説明しながら、徐々にしどろもどろになってくる。
「ドイツが俺としてくれるのって、どうしてなんだろうって、わかんなくなってさ。俺、最初の頃はドイツと気持ち良いことできて、ラッキーぐらいにしか思ってなかったよ。きっと俺が誘ったんだよね……? だから、続かなくてもいいって思ってた、たぶん……。でも最近は、ドイツが俺にするみたいなこと、他の人にしてたら嫌だなって思うんだ。そういうのが不安で、もやもやして苦しくて、だからね、俺ずっとドイツに……好きって言って欲し」
 話の途中で、イタリアは正面からドイツに抱きしめられる。大きな手がそっと背を撫でた。久々にドイツの胸板の厚み、腕の力強さを感じ、イタリアは懐かしさに頬がゆるむ。ドイツの肩に額をグイと押し当てた。




つづく


2011.11.27