笑顔の君がみたい1

 艶やかな髪を鎖骨の下までウエーブさせた彼女は、終始機嫌が良かった。
 天気の良い休日だ。イタリアは5回目に声をかけた女性と、広場近くの店でランチを済ませ、連絡先を交換し、ハグをして別れた。黒髪黒目で、眼が大きく印象的だった。精気に満ちた笑顔もなかなかいい。喋り方に強い癖があり、声が大きかった。角を曲がる直前にもう一度手を振ってくる彼女に、イタリアは大きく手を振りかえした。好感触だ。気になることといえば、高いヒールを履いている彼女からすると、172センチのイタリアはやや背丈、体格ともに見劣りしてしまうことぐらいか。
 久々の高揚感だった。イタリアは、自分もやればできるのだと思う。何か新しく、素晴らしいことが起こるような予感がして浮かれ、帰り道に高価なチーズとワインを買い込んだ。ここ数週間溜め込んでいた鬱屈とした気持ちが、どこかに飛び立っていくようだった。見上げた空がいつもより広く感じる。自分の話に彼女はよく笑ってくれた。それだけのことが、なんて楽しいのかと思う。手応えを感じていた。彼女から連絡はくるだろうか。住んでいるところは遠くない。明日電話をしてみよう、もう一度食事に誘うのだ。劇をよく見ると言っていたから、口実にしてもいい。お互い得意分野なら、話も弾むだろう。
 ふわふわとした足取りで、いくつか路地を曲がり坂を上がって、自分の家の方を見ると、石垣の前に人影がある。近づくにつれ、それがドイツだとわかって眼を疑った。
「ドイツ!」
 少し離れたところからそう呼びかけると、ドイツは顔をあげ、イタリアのほうに向き直った。ラフな格好で、綿のパンツに半袖のポロシャツを着ていた。イタリアが駆け寄っていくと、ドイツは呆れ顔でため息を漏らした。
「携帯電話を持って出かけろ」
「ヴぇヴぇ、そうそう、ごめん」
 さっき、電話番号を交換しようとして携帯電話を家に置いてきたことに気づいたのだ。
「ドイツどうしたの?」
「たまたま、近くに寄ったんでな……ほら、これをやる」
 ドイツは紙袋をイタリアの前につきだした。イタリアは開いている左手で受け取る。右手は買い物袋でふさがっていたので、中をのぞけなかった。
「ありがとー…! これ何?」
「じゃあな、俺は今日はまだ用があるんだ」
「えー? あっ、俺ワイン買ってきたんだ、ちょっと飲まない?」
「遠慮しておく。じゃあな」
「待って! ハグ……!」
 一瞬の軽い抱擁のあと、ドイツは足早に帰ってしまった。イタリアはその背を見送って、名残惜しいが家の中に入る。久々にドイツの匂いを嗅いだと思った。
 紙袋は、上から見ただけでは何が入っているかわからない。中身も白い紙に包まれていて、ずっしりと重さがあった。
 イタリアはトイレを済ませ、楽な格好に着替えて、買ってきた食料をしまい、あらためてダイニングテーブルの上の紙袋に向かった。取り出して包を開けると、中身はアップルクーヘンだった。まるまる1ホールある。どう見てもドイツの手作りだ。
「おお……」
 イタリアは感嘆の息を漏らした。しばらくそれを見つめて、はたと気づく。ドイツは、たまたま近くに寄ったなんて言ってなかったっけ……?
 急いで窓から坂を見下ろしても、もちろん姿があるわけない。家を飛び出し、ドイツが通るであろう道を10分ほど探して歩いたが、どこにも見当たらなかった。途中いくつか店も覗いたが、寄り道もしていないらしい。
 イタリアは自分の足元が、着替えた後のルームシューズであることに気がついて眼を丸くした。いつも寝室で使っているものなので、厚手で丸っこく、表面がボア素材でもこもこしており、とても兼用できるものではない。
 恥ずかしくなって、そそくさと家まで戻った。慌てて携帯電話を探し、ドイツにかけてみたが出なかった。
 落ち着かなかった。ドイツの家にも電話してみたが、プロイセンが留守なのか誰もでない。まだ午後六時だ。紙袋の中身にばかり気を取られ、ドイツが最後にどんな顔をしていたか思い出せない。
 イタリアはもう一度アップルクーヘンを見て、ため息をついた。ドイツは一緒に食べるために持ってきたのかもしれない。待たせたのがいけなかったのか…。携帯電話を持って歩けばよかった。
 胸が傷んだ。ドイツは今来たような顔をしていたけど、もしかるすと、ずいぶん待っていたのかもしれない。
「はぁ……」
 椅子に座ると、力が抜けてしまった。
 ランチタイムの楽しみなど、夢だったかのように脳内から押し出された。悩んでいたことの本題が現れれば、他の出来事など霞んでしまう。
「ヴぇヴぇ〜〜……」
 この気持ちを忘れたいがためのナンパだったと、イタリア自身も薄々気づいていた。ドイツに自分たちの関係を尋ねていいのだろうか。自分は何度も好きだと言っている。ドイツはねだっても言ってくれない。それなのにセックスをしていた。ドイツははっきりさせるのが嫌なのかもしれない…。恋人なんていうと、束縛されると思うのだろうか。
 もしかして、セックスフレンドというやつなのだろうか。考えるだけで憂鬱になる。イタリアにとっては、体だけの行為ではない。ドイツのことが大切だった。いつのまにかこういう関係になってしまったけれど、ドイツと抱きあうのが心底好きだった。
 ドイツのベッド下の収納は、長い間SMものだけだった。しかしこの間確認した時、全体の半分が巨乳ものになっていたのだ。そこまでは良かったが、中をパラパラとめくるうち、ドイツが行為の最中に、時々胸を揉むような仕草をすることを思い出し、恥ずかしさに顔が熱くなり、涙が滲んだ。ドイツにどう思われているのかと思うと、惨めで、消えてしまいたかった。
 それからは、セックスをするのが億劫になり拒むようになった。最近では裸を見せることすら抵抗がある。行為に繋がってしまいそうな、必要以上のハグはしていない。
 女の子とセックスしたいなら、然るべき相手を見つければいいのにと思う。ドイツのような体躯なら、本気を出せば、すぐにそんな相手が見つかるだろう。
 このことを考え始めると、イタリアは自分の全てが否定されたように思え、悲しくて情けなくて、いつも泣いてしまった。嫌になって途中で考えるのをやめて寝てしまう。
 自分とこんなことをしていては、ドイツは大きい胸は揉めない。けれどドイツが離れて行ってしまうのも嫌だった。
 自信が無く、ドイツに確かめる勇気が出なかった。
 ドイツがアップルクーヘンを作ってきても、イタリアの求めているものではない。だが、アップルクーヘンを作ってくれるドイツは嫌いではない…。
こんなに手のこんだプレゼントをくれるのに、どうして好きと言ってくれないんだろう?たった一言あれば、安らかに眠れる気がしたのに。

***


 広場を通り過ぎる途中、偶然にも、これから訪問しようとしていた家の主を見つけ、立ち止まった。さっきから電話をかけているが繋がらないし、あきらめようかと思っていたその時だった。
 歩み寄ろうとしたが、イタリアの向こうに女性が居ることに気づく。話しているのだとわかった。二人のの様子を遠くからしばらく見つめていると、二人は歩き出し、すぐそばのバルに入った。腕時計を見ると正午から三十分経過している。
 ドイツは、意外にも自分が冷静でいることに驚いていた。
 二人はテラス席に座ったので、ドイツは隣の店に入り、同じくテラス席の、イタリアの背面になる席を探し座った。イタリアの身振り手振りだけでも、会話の調子が読み取れる。
 とにかく楽しそうだ。対面に座っている女性は、ほとんどの時間笑っていた。
 二人が席を立つ頃、ドイツはコーヒーのおかわりを飲みながら、手帳になにかメモするふりをして俯いていた。
 おそらく、予定はランチだけだろう。
 イタリアはこのあと、食材でも買って帰宅すると予想した。だがシエスタの時間もある。それに加え、イタリアは突飛な行動も多い。空振るのも嫌なので、夕方に家を訪ねてみよう。持参したケーキを持ち帰るのは、なんとなく癪だった。
 今日訪ねてきた理由は、イタリアに訊きたいことがいくつかあった為だ。が、そのほとんどが訊く前にわかってしまった。
 イタリアは単に自分との関係に飽き、セックスも面倒になったのだ。行為においては女役を担わせていたんだからなおのこと。
 何か傷つけるようなことをしてしまったかと危惧していたが、そうではなかった。その点では安心した。
 はっきり言わないのも、イタリアらしいといえば、らしい。なあなあに終わらせるつもりなのだ。気分屋で調子の良いイタリア。そう思えば、最近の不可解な行動にも全て納得がいく。
 もしかすると、はっきり言うと、傷つけてしまうと思っているのかもしれない。普段はぬけているくせに、変なところを気にするやつだから……。

 夕方五時過ぎに家を訪ねると、イタリアはまだ帰っていなかった。
 十分ほど待ってみると、大きな声で名を呼ばれ、買い物袋をぶら下げたイタリアが、笑顔で駆け寄ってきた。久々に間近で顔を見たので、つられて緩みそうになる頬をひきしめた。
 話す気分でもなかったので、ケーキだけ渡してすぐに帰るつもりだった。
 別れ際にハグをした。ほんのわずかに、嗅ぎ慣れない匂いが混じっていた。それはきっと、先ほどの女性の移り香なのかと思う。苦々しく思ったが、過ぎたことだ。
 帰り道、来た時より足は軽かった。諦めるということは、こんなにも身を軽くするものかと驚いていた。
 前に進むためには、必要だったのかもしれない。以前のように接するには、時間がかかるかもしれないが、無理ではない。幸い、友達ではいたいようだから、少しずつ元に戻していけばいいのだ。


つづく

2011.11.01