パリの12月

「ちっくしょう……」
 イギリスは小さく床を蹴った。
 ホテルが同じだと思ったから夕食に誘っただけであって、アメリカでないといけないなんて、そんなことは決して思っていなかった。
 たまたまその場にいて視界に入ったから、なんとなく声をかけてみただけだ。期待した反応が返ってこなくても、イギリスは表情を崩さなかった。引き際もあっさりしたものだ。紳士である。
 自分に言い聞かせながらそれでも、歯ぎしりしそうなほど、やさぐれた気持ちになっていた。
「くそ、くそ」
 一歩ごとに、言葉にならない呻き声を発しながらイギリスは廊下を歩いた。
 なんてつまらないんだ。
 もちろん、今日ここへ来た目的は会議の為であった。けれど、せっかく久々に諸国と顔を合わせるのだ。親交を深め、情勢を探るのも仕事のうちといえなくもない。
 アメリカのまるで悪気のなさそうな笑顔が浮かぶ。彼はたった二言で誘いを断わり、楽しい用事でもあるのか、意気揚々と会議室を出て行ってしまった。
 イギリスは思わず立ち止まり、俯いて顔を覆った。
 数分前の自分を消してしまいたい。再び、ちくしょう、と呟いた。変な気をまわすからこうなるのだ。声などかけず真っ直ぐホテルに向かっていれば良かった。そうすればあんな顔を見なくてすんだのだ。傷つかなくてすんだ。
「待ってよー、はやいはやい」
「速くないだろう」
「速いよ」
 近づいてきた足音と声に顔を上げると、T次路の下方からドイツとイタリアが歩いてきて角を曲がったところだった。石像のように立ち止まっていたイギリスには気づいていない。前方を歩く二人はいかにも仲睦まじい。
イタリアはそのうち歩調の速いドイツの腕を掴んだ。
「待ってよ」
「なんだ、さっきから」
 スーツの袖を引っ張られ、ドイツは立ち止まった。イタリアは笑顔でドイツを見上げている。二人は一時視線を交わし、また何事もなかったように歩き出した。
「部屋って隣かなぁ?」
「いや、ツインでとった」
「ほんと? ありがとう」
「そのほうが面倒が少ないからだ」
「うん、一緒に寝ようねー」
「ツインでとったと言ったんだ。隣にベッドがあるんだからそこで」
 イタリアは腕に絡み付き、隣の肩に頭を寄せる。ドイツは一度それを見やって、だが咎めもせず歩いている。
 なんとも幸せそうな二人の姿だった。
 イギリスは大きく息を吸い込み、また、苛立つ己の心を宥めるように吐き出した。


***



 二人がホテルに入って夕食をとり部屋に戻ると、もう就寝してもよい時間だった。ベッドを決め各々寝支度をしたが、部屋の電気を消す直前になって、イタリアはドイツのベッド脇に立った。
 すでにふとんに入り、上半身を起こしている格好のドイツはしっかりとイタリアの眼を見つめ、イタリアの向こうにあるベッドを指差した。
「そこで寝ろ、いいな」
 イタリアは小さく首を傾げ聴こえなかったふりをして、ベッドに上がろうと身を乗り出してきた。ドイツはそれを制した。
「良いベッドが二つあるんだ。二つ使えば良い。隣に並んでいるのだから、距離としてはさして変わりはないだろう」
「こことー……、ここでしょ。ぜんぜん違うよ。間に6人くらい寝転べるじゃん」
 ドイツはため息をつき、イタリアに背を向けふとんをかぶった。
「話し合う余地はない」
「むー」
 イタリアがにベッドに上がろうとしたので、ドイツはすかさず押しやった。しかし勢いがつきすぎてイタリアを突き飛ばしてしまう。床に尻餅ついてしまったイタリアを見て、ドイツは起き上がり手を差し伸べた。手を掴んで引っ張ると、自然な流れでベッドに上げてしまった。
 一緒に寝るのは嫌じゃない。だから断る理由もとくになかった。それがドイツにとって困った事だった。
 ただイタリアが過剰に体を寄せてきたり、キスをしてきたりすることは多少諌める。それが面倒でもあり、しかしイタリアが全くベッドに寄り付かなくなったら、自分がどう感じるかを考えると、あまり強く言えなかった。
 イタリアに、やり過ぎだということを理解してほしかったが、何度説明しても頭には留まっていないようだった。その時はおとなしくなるものの、次に会うときはまた同じだ。きっと口で言うほど、迷惑だと思っていないのだろう。
 実際その通りだった。
 もう一度灯りを消し、イタリアに背を向け横になるとしばらくして、イタリアの額がそっと肩甲骨の上部につくのがわかった。
 たまに唇も触れる。こっちは故意にではないらしい。
 いつだったか、ケンカしているのにもかかわらず、イタリアが夜中ベッドに入ってきたのでそれについて怒り、ついでにきつい言葉で不快だと主張したことがあった。頭に血が上って、あまり関係のない文句をいくつか言ったような気がする。侮辱的なことも言ってしまったと思う。本心にあることないこと、とにかくいやみたらしく並べ立てた。
 するとイタリアは、たどたどしく言った。
 いくら仲が良くても、自分から他人のベッドに入りたいなんて思わないし、したことがない言う。
 それならば、目の前の現状は一体なんだと問えば、イタリアは黙ってしまった。そして、おまえのことが特別なんだよ、と言った。
 イタリアにしてはとても遠回しな、なにか含みのある言い方だった。
 ドイツは、イタリアが真剣な顔をしているのに気づいていた。いつもとは雰囲気が違い、ドイツは次に口から出そうとしていた台詞を躊躇った。
 何故かそれ以上声をかけられなくなり、無言で体をベッドの左側に寄せた。結局一緒に眠り、朝になればケンカのわだかまりも残っておらず元通りだ。イタリアは元気だった。
 特別、とはどういうことなのか。その詳細を訊いてははいけないような気がしていたので長らく話題にしなかった。それはイタリアも同じだった。このまま時が流れ忘れて行くのが良いと思えた。
 イタリアが同じベッドで眠る行為について、彼のなかでさえ《特別》なことなのだと認識すると、ドイツはちょっとした優越感を得られるようになっていた。理由など知らなくてもいい。
 冬場はそこに温かさがある。だが夏は何も良い事がなかった。むしろ、イタリアは暑いと文句を垂れながらもくっついてくることがあるので、どちらかというと迷惑だったが、それでも受け入れてしまうのは、ドイツ自身なぜだか分からない。
 背中に唇が触れることについて尋ねたとき、イタリアは、キスしているのではなく姿勢を変えるときに唇が当たってしまう、と笑って言った。けれど、ドイツにはどうもそう思えなかった。
 そして今日もイタリアは、ドイツが眠りに落ちかけそうなとき、背中に唇を当てた。二回目もあった。三回目も四回目も……。
「すきだよ」
 いつも言われている言葉だ。
 それなのに、ドイツの呼吸は一瞬止まった。すぐに元通りになったが、心臓は強く打っていた。嫌なかんじではない。高揚感とでもいうのだろうか、体中がざわめき不思議な感覚だった。ドイツは我慢できずに言った。
「こら、こういうのが気になると言ってるんだ」
 仰向けになりイタリアのほうを見たが、ドイツの肩と布団の間に顔を埋めたまま動かないので、顔が確認できなかった。
「ごめん、寝よ」
「キスしているだろ」
「うんー」
「しないように」
「してると安心するんだよ」
「俺の背中以外にしろ」
 ドイツはわざと大きくため息をついた。そして枕元のスイッチをひねり灯りをつけ、イタリアに覆いかぶさる。イタリアの体は驚いたのか一度震え、強ばった。
 首と膝裏に手を通し抱き上げて、隣のベッドへ下ろした。その体にふとんをかけ直す。
イタリアを見下ろすと何故か眼がまっ赤だった。
「どうした、何か……」
「ううん」
 イタリアはすぐに涙をこぼす、ささいなことでも、ドイツからみればどうでもいいことでも泣く。
 イタリアの涙腺が弱いことは、当初マイナスイメージしかなかった。泣く度に苛立ちを感じていた。だがそれはいつしか『仕方ない』に変化していき、付き合いが長くなるうち、泣き顔が『可愛い』とすら感じるようなった。
 しかし、気を使って声をかければ次の瞬間に笑っているようなこともよくあり、移り気なイタリアの喜怒哀楽に振り回されているのも事実だ。
 全部に付き合っていると疲れてしまう。ドイツは、イタリアの涙に限り、あまり重く考えないようにしていた。

 
つづく

2010.12.17