おまえのしてほしいこと 半年後6


「気持ちいい?」
「ああ……」
 恥ずかしくてたまらなかった。バスタブに前後に浸かり、イタリアの手は後ろから頭を支えている。
 対面していないのが唯一の救いだが、たまに顔を覗きこんでこようとするので、うまく避けなければならなかった。
 イタリアの髪を洗ったことは何度もあったが、いくらせがまれても、洗わせるのは拒否していた。理由はあったが、いま考えてみればどれも些細な事だった。
 イタリアの指先は優しく、ほとんど頭皮を撫でているような状態だった。泡立った髪を梳かしつける手。しかしスキンシップが目的なので、指摘はしなかった。今日はもう、イタリアが楽しそうにしていたらそれで良いだろうと思う。本来の目的とは違った意味でだが、気持ちいいことに間違いはなかった。
 湯は表面にたっぷりと泡が浮いていて、それでも、腰の横にイタリアの膝頭が少しだけ見える。それが動く度に、息が詰まった。
「愛してるよ」
 イタリアは昨日食べたピザの話のあとに、唐突にそう言い出した。俺も愛している、と、そういうのが最善なことはわかっていた。ああしかし、どうしてもそのたった一言が、喉に張り付いたように出てこない。まだ保身に走っているのか。そう思うと、自分が情けなかった。『恋人ごっこ』のときに、一度でも言い返していたら、違っていたのかもしれない。もっと気軽に返せたのかもしれない。今ではもう、複雑な想いが込められすぎている。
 イタリアが次の話題に移る前に、早く言ってしまわないと。
 時間がたつにつれ、どんどん羞恥が増して、言いづらくなった。イタリアの手は変わらず泡立った髪を梳いていたが、どう思われているのだろう。これでは、どっちが意気地なしかわからない。もう二度と、イタリアのことをヘタレだなんて言う資格はない。
次第に気分が悪くなってくる。こんなにぬるい湯で、湯あたりするわけがないので、やまない動悸のせいなのだろうか。愛してると、たった一言いえばいいだけなのに。
「ねえそういえば、隣で飼ってるネコちゃんがね、ときどきうちにも入ってくるんだけどさー」
 イタリアは案の定違う話題に入った。少しほっとして、しかし申し訳なく想い、自分の不甲斐なさを恥じた。せっかくのチャンスだったのに、一体何をやっているんだ。
 もうお預けを食らうのは嫌だった。今度拒絶されたら、自信が消え去ってしまう。本当に今なのだろうか。確かにホテルに誘われているが、イタリアのことだから、ただ単に仲直りをしたくて、場所が欲しくて寄っただけなのかもしれない。ディナーはとても美味かったから、もとからレストランが気に入っていてここを選んだ可能性もある。
 未遂とはいえ、浮気しようとしたことは本当だ。それだけは事実で、言い訳もできない。そんな不義を働いた男とイタリアが行為に及ぶのは、例えイタリアが気にしないといっても、己が許せなかった。
 こんな状態で愛していると返したら、きっと行為になだれ込んでしまう。ああしかし何も言わないのは……。考えで頭がパンクしそうになっていると、相槌も忘れていたらしい。いつの間にかイタリアの手は止まっていた。
「ドイツ……?」
 急に耳元で声がした。
「すまん。ぼうっとしていた。」
「なに考えてた?」
「いや…とくに」
「俺のこと?」
「違う」
 セックスのことばかり考えていると思われるのは、大いに抵抗があった。今までずっと表面的には質実剛健なイメージで通してきたのに、イタリアとこういうやりとりをするようになってからは、本当に情けない姿ばかり見せしまう。それも悩みだった。
「……じゃあなんのこと……?」
「それは……、いろいろだ」
「ふーん……」
 イタリアの手は再び髪を撫で始めたが、それからはポツポツとしかしゃべらなかった。かといって自分が会話を広げられるはずもなく、会話が弾まないままイタリアがもう出よう、と言ったあたりで、ようやく自分が失言をしたのだと気付いた。日本の家に泊まった時、同じようなやりとりの末、イタリアを怒鳴りつけた。 バスタブの端を跨ごうとしているイタリアの手を引く。
「よければ……体も洗ってくれないか」
「え?」
「よければだが」
「いいの?」
 イタリアはすぐに元の位置に収まっった。
「もちろん」
「わーい!じゃあ洗う!!」  そう言って喜び、手のひらで石鹸を泡立てはじめたので、慌ててタオルを渡した。
「あれ、ドイツって乾燥するからって手で洗ってなかった?」
「タオルだ」
「そうだっけなー」
 イタリアは手の泡をうつし、そして更に石鹸でタオルをくるみ、泡立てはじめた。視線が合う。
「じゃあオイルは俺が塗ってもいいよね?」
イタリアと見つめ合ったまま、少し躊躇ったのち答えた。
「………ああ」



2012.7.22
つづき