おまえのしてほしいこと 半年後3


「なくした? すられたんじゃねーのかよ」
「わからない。とにかくないんだ。だが酔って帰ると思っていたから、金だけいれて別の財布できたんだ。カード類は平気だ」
「そっか、んじゃ良かったぜ。じゃあ迎え行くわ。携帯繋がんねーし、心配したんだかんな」
「すまない」
「あ、ちょっと待て」
 携帯電話越しの声が遠くなる。「なー! イタリアちゃん、ヴェストまだ昨日飲んでたとこにいんだけどよ。迎えに行ってやってくんねー?」「ああ、そうみてー。もう俺もてっきり、帰ったもんだと思っててよ」「ケッセッセ、あ、待ってヴェストの財布、えーっと……あー、部屋の机かな。うん、そうそう」
「おい! 待て……兄さん!!」
「あー? あった? ダンケ」
 ようやく声が戻ってきた。
「これからイタリアちゃん行くからよ。おとなしく待ってろよ」
「イタリア?! 兄さんが来てくれ!!」
「は? いや、丁度今イタリアちゃん来たんだよ。コーヒー飲んでたとこ。おまえもそのほうがいいだろ? それに今日荷物届く予定だし家あけらんねーし」
「じゃあ、イタリアを留守番にして、兄さんが来てくれ! 頼む!」
「何だ? なんかやばいことでもあったのか?」
「い、いや……、気分が悪いから…イタリアの面倒までみる自信がないというか」
「ププーッ、おまえ酒残ってんの? 一人でどんだけ飲んだんだよ」
「イタリアより兄さんの顔が見たい」
「おいおいヴェスト、ったく参っちまうなぁ俺がいい兄貴過ぎて!!」
「じゃあ……」
「あ、もうイタリアちゃん行っちまった。よーろしーくなぁー!!」
「呼び戻せ!!」
 プロイセンは大声で遠くに呼びかけていた。
 ドイツは通話を切ったあと、頭を抱え俯いた。

 ***


 彼女は、帰ろうとすると怒った。それもそうだろう……女性に恥をかかせて、何も説明しないわけにはいかない。自分の好きな相手のことについて、少し話した。すると彼女は同情してくれた。彼女自身、長くつらい片恋をしていたことがあるのだと。その時のことを思い出す、と……。
 こっちは片思いではないのだが。そう言いそうになったが、なんだかもう、同じようなものだな、と思い、とくに訂正しなかった。
 去り際、涙を拭い手を振る彼女に、幸運を!と言われた。
 それから元いた酒場に戻る最中、静かで雰囲気のよさそうな店を見つけ、動くのが億劫だったから、つい入ってしまった。店主ともう一人でやっているような、小さな店だったが、居心地が良かった。
 はじめに少し会話して、後は気分を察してくれたのか、とくに話しかけて来なかった。自分の他には常連客が二、三人。
 プロイセンには、静かなところで飲み直しているから先に帰れ、とメールを打った。ビールにも飽きてきたので、エストニア産のウォッカを飲んでみた。なんだか、そういう気分だったのだ…。
 そして気づくと朝だった。
 どうやらテーブルに突っ伏して寝てしまったようだ。店は閉まっていて、他の客も皆帰っていた。表には誰もいず、どうしようかと思っていたところに店主が顔を出したので礼を言い、金を払おうとした。そこで、財布がないことに気付いた。
 道で落としたのか…、すられたのか。それとも彼女の部屋に置いたのか、もう思い出せない。
 ここからそう遠くない役所に務める知り合いがいることはいたが、まさか、こんな姿で頼りたくない。すぐに兄に電話をかけた。携帯電話を持っていて良かった。
 怒鳴り、ひどい顔で電話を切ったので、店主に大丈夫か?と尋ねられた。心配ない迎えがくる、と応えたがもう頭の中がめちゃくちゃだ。溜息を繰り返しうつむいていると、店主は水を差し出してくれた。

***

「わあああ待て! 服にビールをこぼしたんだ、ベタベタしているから」
 一時間後、そう嘘をついて、思い切りハグしようとしてきたイタリアを回避した。
「そーなの? ていうかドイツ…。ほんとだ、なんかすげーやばい匂いするよ。あ、車向こうにとめてあるから」
 そんなに匂うかと思い襟元をかいだ。自分でも眉を顰める匂いがした。
 酒とタバコ、甘い香水……、ザワークラフト、自分の体臭。全部きつくして、腐らせたような匂いだ。もしかすると、テーブルに突っ伏した時に、やはり何かこぼしたのかもしれない。
 ああしかし、こんなふうにイタリアに会うことになってしまうとは。結局キスしかしなかったものの、後ろめたいことをした自覚はある。そわそわと落ち着かなかった。香水の匂い、女物とバレているだろうか……。
「車で来たのか?」
「うん。えっと……この近くにサウナなかったっけ? 時間あるし途中で服買って、着替えたら? 気持ち悪いでしょー? んでさ、どっかで御飯食べてかえろ〜〜。ね?ね?」
 立場が逆だったら、同じ事を言っただろう。さすがにこの状態でイタリアの車にのるのは、躊躇われた。直接汚しはしなくても、匂いがしみついてしまう気がする。うなずくと、イタリアは満面の笑みを見せた。

 サウナには行ったが、まだ酔っているから、と言い訳をしシャワーで引き返してきた。イタリアは残念そうな顔をしたが、一人で先へ歩いていった。この精神状態で、イタリアの裸を見るのはよくない。新しいシャツに着替えると、生き返った気さえした。中で待っていてもよかったのだが、どうも落ちつかない。
 外の空気が吸いたくて、店の前にある幾つかのテーブルセットのうち、一つの椅子に腰掛け、炭酸水を飲みながら、イタリアが出てくるのを待っていた。爽やかな秋晴れだった。とてもすごしやすい気候だ。
 ーー昨日。
 彼女と接して、わかったことがあった。
 イタリアと抱きあうときに感じる、あの、自分が誇らしくなるような、高められていくような感覚。何もかも奪って、傷つけ、翻弄させ、自分だけのものにして、どこかに閉じ込めてしまいたくなる衝動。そして質の高いチョコレートを食べ続けているような、恍惚とした、酩酊感。
 それらはどれも、姿を表さなかった。
 彼女は美しく、スタイルも良かった。もちろんセックスへの過度な期待から、勃起もしていた。
 それなのに理性を失わなかった理由……。
(ああ、俺は……)
 額に手を当てると、瓶に触れていたせいかひんやりと冷たく、心地よかった。
(俺は………あれらが性衝動と必ず結びついていると思っていた)
 唇に触れた時、イタリアの匂いがしなかった。そのことに強烈な違和感を覚えた。
(イタリアのことが好きで、セックスをしたい……。できないことそのものに、不満があるわけでわない。イタリアが俺を、警戒しているような気がして不満なんだ。よく考えろ、今まではセックスなどせずとも、何十年も仲良くやってきたんだ。何を焦っているんだ。イタリアを責めたって仕方がない。俺に原因があるのでは……)
 その時、首筋に冷たい物が押し当てられ、驚いて姿勢を正すとイタリアが後ろにいた。同じ瓶をもち、片手にはコップを持っている。すぐ隣に座った。
「気持ちよかったぁ」
「そうだな、俺もさっぱりした」
「もう変な匂いしないよ」
イタリアはクスクスと笑う。
「ねえドイツ、前から言ってたけど、今度バーデンバーデン連れてってよ〜? ずっと行ってみたかったんだー」
「あ、ああ……。そうだな」
「いつがいい? 俺、来月の頭が都合いいんだけど」
「わかった、予定を調べてみる。帰ったら」
 ドイツは、紙の手帳でスケジュール管理をしていた。モバイルに切り替えたこともあったが、スタイルに合わなかったのだ。
 イタリアの鎖骨に光る、汗か……、水滴が、するっと胸元に吸い込まれていく。瓶の中を飲み終わるまで、しばらくそこで涼んでいた。

2012.6.29


つづき