おまえのしてほしいこと 半年後2

一気に飲み干したビールジョッキを、テーブルに音を立て置いた。
「別に、なんでもない。あるだろう、意味もなくむしゃくしゃする時が」
「んー、まぁな。あるけどよ。だけど」
 週末プロイセンと市の中心部にある酒場に来ていた。何度か来たことがある。かなり広いホールをそのまま使っているので、祭りのときのような喧騒を味わえるのが売りの店だった。奥の舞台で催しがある。今は、ヴァイオリンの速弾きユニットが陽気な旋律を奏でていた。
 ここは、家から地下鉄を乗り継いで一時間ほどかかる。オクトーバーフェストを来週に控えているが、今日も変わらず賑わっていた。前哨戦のように、いつにもまして騒がしい気さえする。
 プロイセンもジョッキの3分の1ほどを飲み、口元を拭う。
「ちょっとペース早くねーか。俺もう、おまえおぶって帰んのやだかんな」
「このくらいでつぶれるわけ無いだろうが」
 兄はしばらくして、トイレに行くと言って席を離れた。だが途中で横から顔馴染みに声を掛けられたらしく、立ち話が始まっていた。なかなか戻ってきそうにない。やがて人に紛れて見えなくなった。
 一人ビールを飲み続けているうち、どんどんペースは加速した。それから何杯目かのジョッキが運ばれてきて口をつけようとした時、一人の女性と目が合う。すぐに目を逸らしたが、女性はテーブルにやってきた。仕方無く顔をあげる。軽く挨拶をした。
 彼女は民族衣装を現代風にアレンジしたものを着ていた。つい、胸に目が行く。谷間が見え、なかなかの大きさだった。栗色でストレートの髪が背を綺麗に覆っている。彼女はイリーネと言い、基本的に個人で営業をしているダンサーで、来週のオクトーバフェストの準備で、オーストリアからきているのだという。確かに、よく筋肉がついているし、ウエストや足首は引き締まっていた。
 とても強烈で甘いジャスミンのような、花の香水の匂いがあとを引く。酔っている状態でこう感じるのだから、つけすぎじゃないだろうか。
 彼女の話は続いたが、まるで興味がなかった。いや、普段ならあったのかもしれない……。しかし、なんだか、新しい交流をする気分ではなかったのだ。彼女には悪いが、しばらく一人で飲んでいたかった。こういった場面での会話は得意ではない。とくに話題も思い浮かばない。気のない返事を繰り返していれば、すぐに席を離れていくだろうと思った。だが不思議な事に、彼女は無言でもじっとそこにいた。

 手元のビールを飲みきったところで、テーブル上の手を、そっと握られた。
 その時、急に何かスイッチでも入ったかのように、その気になった。
 細い手首には、華奢なチェーンのブレスレットが光っていた。爪は長く、先は丸くカットされ、綺麗に白が塗ってあった。指輪はない。
 指輪……何か大切なことを思い出し掛けていたが、途中で諦めた。酒のせいだろう。
 魔が差した、というのが本当に正しい表現だと思う。
 彼女に誘われるまま、ふらふらと席を離れていた。

***

陽気な人々の合間を縫って歩くうち、徐々に喧騒から離れていき、静かになった。
そして、彼女に手を引かれるまま一件の店に入った。どうやら、彼女が連泊している宿らしい。フロントに何かいい、そのまま階段をあがった。まるで夢の中にいるように、足取りは軽い。高揚感が増す。
 最初は不快だった強すぎる香水も、これはこれでなかなか良いものだと、感じるようになった。歩いたせいでアルコールがまわって、体が火照っている。頭から冷たいシャワーを浴びたい。
 部屋に入ると、彼女はすぐベッドへ誘った。楽しそうにしていた。
 不思議だった。こんなにも容易く女性の部屋に入れるとは。今まで祭りにも毎年来ているが、こんなふうに誘われたことは一度もなかった。しかし、さっき出会ったばかりでいいのだろうか。映画のような展開だ。しかし、求められるという立場は、なかなか……悪くなかった。
 立ったままぼんやり考えていると、抱きつかれ、いつのまにか彼女が下着姿になっていたことに気付く。視覚的な刺激に、半身は反応していた。甘い香水の香りが立ち上った。鼻孔から全身に回って、あらゆる判断を鈍化させていくように思った。
 部屋は薄暗い。夜風がそろそろと吹き込んでいて冷たい。窓の作りが甘いのだろう。
 二人でベッドに座った。少しの触れ合いで、彼女が充分に馴れているのがわかった。
 経験がないことは、やはりバレてしまうだろうか。しかし、一夜限りならもう会うこともない。恥と感じて困ることもないだろう。かえって都合がいい。ああ、しかしコンドームを持っていない。そのことを思うと急に冷静な思考が戻ってきた。正直に説明すると、彼女はベッド脇の棚から、目的のものを取り出した。自分から誘うような女性だ。あわよくば何かあるかもしれないと、準備もしてあるのだろう。ほっとして、行為に望もうとキスをした。
 その時、触れた唇が思い描いていたものと違い、心臓が跳ね上がった。イタリアが、自分にとってどれほど特別な存在か思い知った。

2012.6.28


つづき