まさか友だち記念日を忘れるなど3

 また一週間後の週末、帰宅すると、フェリシアーノと兄のギルベルト、そしてローデリヒの三人が仲良く居間のテーブルを囲んでいた。たくさんの写真が並べられている。
「あ! おかえりー」
「ああ」
 フェリシアーノに会うのは、まるまる一週間ぶりだった。
 いつもと同じ様子で近づいて来て、抱擁を求めた。普段通りに抱きしめると、嗅ぎなれた香水の匂いを感じ、懐かしさに胸がしめつけられた。
「あれ、ルート、なんか元気ない……? ねー、なんかこうしてちゃんと話すの久しぶりだね」
「ああ……そうだな」
「お祭りの写真いっぱい撮ったんだー! ああでも、撮ってくれたのはフランシス兄ちゃんだけど」
 そう言ってニコニコとテーブルに引っ張って行こうとするフェリシアーノの手を、やんわりと解いた。土産話を聴けば、きっと俺は機嫌が悪くなるだろう。容易に想像がついて、首を振った。
「悪いな、見たいが……、今日は疲れているから早く寝る」
「そう?」
 フェリシアーノは軽く首をひねったが、すぐに諦めたようで、腕を放した。
 他の二人にも声をかけ、その後、すぐに浴室へ向かった。フェリシアーノはエリザベータと違って、週末、勝手に来て勝手に帰っていく。もうこの家ではそれが容認されていた。もちろん今日は泊まって、明日帰るのだろうと思う。
 顔は見たかったが、明日だってあいつは必ず、フランスでの楽しかったことを事細かに説明しようとするだろう。
 その行為自体は、ごく自然なことだとわかっているが、俺はそれを素直に聴いてやれる気がしない。
 シャワーを浴び、髪を軽く拭いて自室に戻ると、ベッドにフェリシアーノが寝転んでいた。物の位置を変えたりしなければ、部屋に入ってもいいとは言ってある。だが、このタイミングで来るとは思っていなかったので驚いた。
 ドアノブに手を掛けたままの姿勢で立ち尽くしていると、俺に気づいたフェリシアーノが起き上がり、微笑んだ。
「ねー、ルート靴買ったの? これって、あの橋のすぐ手前の靴屋だよね」
「あ、ああ……」
 フェリシアーノの視線の先を追い、心臓が飛び出そうになる。先週の土曜の夜、失意のまま置いた紙袋は、机の上にそのままになっていた。最近家に仕事を持ち帰る事などなかったから、机は使っていなかったのだ。なぜクローゼットに仕舞っておかなかった、と強烈に後悔した。
「あそこのおじさん、すっごく優しいよねぇ。俺、結局なんにも買わなかったのに、お菓子もらったことあるよ」
「そうか……」
「どんなの買った?」
「仕事用の黒だ」
「ふうん」
 できるだけなんの執着もないように、素っ気なく言ったつもりだ。フェリシアーノの視線が紙袋から外れないことに危機感を覚えた。だがこんなときに限って、焦りのためか他に良い話題が思い浮かばない。
「ねー、ルート見ていい?」
 フェリシアーノは立ち上がり机に寄った。袋に掛かろうとしたその手を強く掴む。
「いや……」
 不思議そうに顔を見上げられ、俺は心臓がバクバクと鳴っていた。
「そ……それより! おまえ、少し痩せたんじゃないか」
「え? うんー、フェリクスってほんとあっちこっち行くからさ、すっごい歩き回ってたし、そのせいかな」
 そう言いながらも、今度はフェリシアーノの左手が袋に伸びた。それもがしりと掴む。
「どうしたの? ルート、なんか変だよ」
 フェリシアーノの口元は綻び、瞳は優しく俺を見つめてきた。こんな雰囲気のある甘い顔を至近距離で見るのは久しぶりだったし、キスするほど近くまで迫られ、思わず眼を逸らしてしまう。
「わかっちゃったー、中身、靴じゃないもの入ってるんだ!」
 フェリシアーノが急に前に迫り出し、唇が軽く重なったので、驚いて手を緩めてしまった。
 その隙に袋の持ち手を掴まれてしまう。
「何々? えっちなやつ?」
「おい! 待て、やめろ」
 俺から逃れようと、フェリシアーノは不自然な体勢でベッドに倒れ込んだ。上からそれを押さえつけて、その手をもう一度掴む。フェリシアーノは袋を取り落としたが、逆さまに落ちたので、靴の箱が袋からはみ出ていた。蓋が少しずれれば、中身が見えてしまう。それはフェリシアーノの頭頂部と、ヘッドボードの間にあった。俺はうつ伏せの上に覆いかぶさり、しっかりと片手ずつ手首を掴んでシーツに縫い付けていた。
「ルート」
 フェリシアーノの声は笑っている。首を捻ってこちらを見上げようとする横顔に、長いまつげが揺れる。
 靴のことさえなければ、仲を深める良い機会のはずだったが、俺は冷や汗すらかいていた。
 片手で押さえつける事ができれば、靴をどうにかできる。だがしかし、貧弱だとか根性がないとか、日頃さんざん激をとばしているが、こいつも全く力がないわけではない。
「とにかく……、今日は遊びに付き合ってられん。疲れていると言っただろう」
 なんとか声を抑えてそう言うと、左手の指先に、生温かい湿り気が触れた。フェリシアーノは顔を傾けて、薄く開いた唇から舌を覗かせていた。
 舌先が、ちろちろと俺の指を辿った。その舌の動きは、より性的な行為を連想させる。顔が熱くなり、反射的に手も体も引いてしまった。
 フェリシアーノはその隙に肘をつき体勢を整え、匍匐前進のような動きで、ヘッドボードのほうにある靴箱に手を伸ばした。蓋をあけ中に見えた物が、俺が説明した通りだったのでフェリシアーノは嘆いた。
「あれー? 靴じゃん……」
 とんでもない何かが出てくると期待していたようだ。
 露骨に残念がっている。
 俺はあまりの焦りと動悸に混乱し、冷静さを完全に欠いていた。どうしたらいいのか判断が出来なかった。
 すぐに靴を取り上げたら訝しがられるだろう。しかし、なんと説明をしたら自然なのかがわからない。そもそも、今になってフェリシアーノにこの靴を見られるなんて、一度たりとも想像した事がなかったのだ。
 フェリシアーノは、硬直する俺をよそに靴を眺めていたが、やがて気づいたようで顔を上げた。
「でも小さいよー、ルートの足、入んないんじゃない? 間違えた?」
 言いながら起き上がって、足を床に降ろした。自分の靴を脱いで、替わりに新しい革靴に足先を入れ、すくと立ち上がる。振り返ってこちらを見た。
「あ、俺ぴったりだー。ねえねえ、返すんならこれ俺にちょうだい! 気にいっ」
「出て行け!!」
 自分でも驚くほど大きい声を出してしまった。本気で怒っているのだとわかったのか、フェリシアーノは言葉の続きを口にしなかった。
 少しの沈黙のあと、思い立ったように慌てて靴を脱ぎ、底を軽く払って靴箱にしまった。
 改めて自分の靴を履いて立ち上がると、遠慮がちに声をかけてくる。
「ごめんね……、おやすみ。ルート」
 抱擁したそうだったが、どうしてもそんな気にはなれなくて、俺はベッドに座ったまま、腕組みをして顔も上げなかった。おやすみとも言わなかった。しばらくしてフェリシアーノは出て行った。


 フェリシアーノが欲しいというならやればいいし、もとからその為に買ったはずの物だった。自分のプライドのために怒鳴りつけてしまった。本当に俺はなんて融通のきかない男なのだろう。
 どうすれば最善だったか、何度も考えた。
 眼につくところに放置していたことが、一番の失敗だが、こう一息ついてみれば、フェリシアーノを黙らせる言い訳などいくらでも思いつく。そもそもこんな記念日など、俺も忘れてしまっていれば良かった。そうすれば思い煩うことなど無く、何一つ問題は起きなかったはずだ。
 悩むうちに、日付も変わっていた。電気を消しベッドに潜ったが、最後に見た気まずそうなフェリシアーノの顔と、途中に見た柔らかい笑顔が、交互に瞼の裏でちらついた。それと、先週見たフェリクスといるときのあの無邪気な顔。
 俺はフェリシアーノとまるで性格が違うし、あいつのやる事成す事、許容できないことのほうが多い。
 文句ばかりつけるし、フェリシアーノは俺に辟易しているだろうと何度も思った。
 普通ここまで合わないと自然と距離を置くものだろう。
 しかしフェリシアーノは変わらず俺を頼るし、暇を見つけては会いにくる。嫌ではなかった。どうしようもない奴だと呆れても、本気で鬱陶しいとは思った事がない。あいつにのせられて浮かれるのは、なかなかに新鮮で心が沸き立つことだった。
 起き上がってナイトテーブルの上のランプをつけた。暖色の光がぼんやりと広がる。横の置き時計を確認すれば、ベッドに潜ってからすでに一時間も経過していた。



つづき