恋に目覚めたら 1

「おい」
 ドイツは見送りに出た玄関先でイタリアの肩を掴むと、正面を向かせ、曲がっているネクタイを直した。イタリアは微笑んで礼を言う。
「ありがと」
 元気に抱きついてきたので、ドイツは迷惑そうに体を押し返し、ため息をついた。またタイがよれたのでもう一度直線に正す。
「お前の部屋と、リビングぐらいは掃除してもいいか? 時間が余れば洗面所も」
「兄ちゃんの部屋以外だったら、ぜーんぶ掃除してもいいよ。机の上もね」
 ドイツは、昨夜からイタリアの家へ泊まりに来ていた。今日は本来休日だが、祭事の打ち合わせがあるらしい。打ち合わせという名義だが、実際は顔見せのあと、歌って飲んで食べて帰ってくるだけだと、イタリアは話していた。ロマーノは今日明日帰ってこないので、ドイツは今晩も泊まって行く予定だ。
 イタリアを送り出すと、ドイツは早速家の掃除にとりかかることにした。
 掃除機をかけるのに邪魔な床上の物を先に片付け、机の上も整えた。開きかけの本やらノートやらを畳んでいくと、最下部に白いカードが現れる。
 ドイツの名と、愛してるありがとう、と書いてあった。
 イタリアが気に入っている古典映画にこういうシーンがあるらしく、時々ふざけてそれを真似る。イタリアの話では、机にあった書きかけのメッセージカードに気付き、すれ違っていた恋が実るという内容だった。
 ドイツは、カードの文字を目にすると少し胸が痛んだ。
 イタリアは何も考えずいつもの調子で、これを書いたのだろうか。
 何か深い意味があれば良いのに、とドイツは思った。左の窓にかざし、太陽光に透かしてみたりした。文字以外にはなにも装飾のない、本当に無地のまっさらなカードだった。あとで鞄に仕舞うのを忘れないように、とベッドの上にそれを避けた。
 今までもこういうことは何度かあった。
 前はいつだったか……忘れてしまったが、その時は「いつもあなたのことを想ってます」と書いてあった。そのまえは、「俺の事をどのくらい好きですか?」と。
 イタリアが普段、直接伝えてくることばかりだったので、ドイツはこのカードのことを重要とは思わなかった。一種の遊びである。
 今日のように部屋を片付けた後イタリアに会うと、何かを指摘してほしそうに思わせぶりな態度をとる。からかいの対象になるのが予期出来たので、ドイツは話題にあげるのを頑なに拒んだ。イタリアもドイツの反応がないとやはりつまらないらしく執着はせず、すぐに他の話題に移っていった。
 イタリアの部屋は好きだった。とにかく、イタリアの匂いで満たされている。ルームフレグランスのバーベナの香りに、イタリアの常用しているトワレの残り香が少し混ざっていた。爽やかで、春の花畑のような印象だ。それでいて、よく嗅ぐと少し甘い。さすがと言うベきか、イタリアはこういった組み合わせも考えているのかもしれない。息を吸い、胸で転がし吐き出せば、清涼感すら感じた。
 イタリアはそこまで部屋を散らかすことはないが、問題と言えば、とにかく洋服持ちで、クローゼットの中がいつも服で溢れかえっていることだ。玄関を入ってすぐ右にある納戸兼クローゼットにも、良く着るコートとジャケット、それと靴が収納されている。ロマーノの分と合わせて30足ほどだ。もちろん自室のクローゼットの中にもまだたくさんの靴がある。
 靴の空箱を捨てずに置いてあるので、何故かと問えば、特に理由はないらしい。買う度になんとなく積み重ねていき出来上がった靴箱の塔が、部屋の角に三つ出来上がっていた。もうそろそろ掃除の邪魔なので、処分させようとドイツは思っていた。
 靴箱を廊下へ移動させていると、全て空き箱と思い込んでいた中にひとつ、重みを感じる箱があった。
 中身を出し忘れているのだろうか。
 そう思いドイツは、重ねて持っていた四つの箱を床に置き、上の軽い三つを横に避け、一番下の箱を開けた。
 ふたを取り、しわの寄った茶色の包み紙を開けると、何故か中には一回り小さい箱が入っており、不思議に思ってそのふたも開けた。
 そしてそこにはあまりにも、ドイツには想像し得なかったものが入っていてしばらくそれに見入った。
 形は男性器を模したものである。表面は滑らかで合成樹脂、またはシリコンのようにも見えた。色は淡く、イタリアの肌より少し明るい。下から数センチの所に切り替えのスイッチがある。手に取り裏返すと、電池蓋らしき部分に長方形の細い継ぎ目がっ入っていた。
一瞬頭が真っ白になる。
 マッサージだとか、肩こりだとか、そのために先端の形は必要ない。
 スイッチを上にスライドさせてみた。手中のものは低い振動音とともに震えだし、ドイツはすぐにスイッチをもとに戻す。静止したそれを箱の中にしまって、蓋を締め、茶色の包み紙を戻した。
 その際、包み紙の下敷きになって半分はみ出ている納品書を見つける。確認すると、日付はおそよ5ヶ月前のものだった。商品名はわざと見なかった。
 ドイツはそのころの自分を思い出していた……。
 浮かれていた。その理由は、イタリアと性行為をしたことにあった。
 半年ほど前のある晩、ドイツの家で酔い上機嫌だったイタリアはやけに甘えてきて、いつもより多く好きと言い肌を合わせたがり、頭を撫でて、好きと言って、と懇願してきた。今となってみればその後のことは、雰囲気に流された、としか言いようが無い。
 イタリアのことはもちろん気に入ってはいたし、たまに色気のようなものを感じる事もあったが、ドイツはそれを直接自分と結びつけた事がなかった。求められるなんて夢にも思わなかった。
 イタリアに触られるうちにその気になった、というのが正しい。
 翌朝、酒が抜け正気になったイタリアは猛烈に照れていて、迫った事をなんども謝り、酔った勢いだ、後悔している、というような趣旨のことをしどろもどろになり顔を真っ赤にさせながら言った。
 可愛いと思う瞬間は今までも何度かあったが、それとは違う何かが心を満たした。それは、いつか大恥をかいたヴァレンティーノの時にも感じた、心沸き立つような甘酸っぱい感情だった。あの時は自分の勘違いだったけれど、今は違う。なにしろ、イタリアのほうから……。
 ドイツは、同性だということに多少の違和感は感じていたものの、強い偏見はなかった。体を重ねることに関しては、完全に気持ちよさのほうが勝っている。
 変に拒んでイタリアを傷つけない為だ、という持論を盾にすれば、大抵のことはやってしまえたのだ。それに、イタリアが迫ってきたのだから、いざとなれば何もかもイタリアのせいにできる。何層にも張られた防護壁の向こうにイタリアを感じていた。それなのにあまりにも刺激は強い。
 ドイツはイタリアが懸命に言い訳をする姿を見つめ、少しでも目の奥に焼き付け、思い出せるようにしておこうと思った。
 それから一時の間ドイツは、自分たちが世間で言う"恋愛関係"にあるのだろうと思い込んでいた。互いに好んでいるのはわかっているし、体の関係も持ってしまった。イタリアに、そこまで好かれているのかと思うと良い気分だった。それに恋人になったからといって、自分とイタリアと関係が、大きく変化するとも思えない。いつもの状態より少し甘やかしてやって、それに性行為が加わっただけのことだと。この時はまだそう高を括っていた。
 正式に「今日から恋人同士だ」なんてわざわざ言うのは変だと思ったからそのままにしておいたが、やがてイタリアの言動によって少しずつ、二人の関係に変化が生じたわけではないのだと思い知らされた。
 イタリアは、本当に”後悔”していたのだ。
 言い訳などではなかった。
 いつしかあの夜のことは、遠く遠くと追いやられていった。話題にすることもなかった。もう半年経つ。昨晩も同じベッドで眠ったが、まるで親子がするようなキスをしただけだ。
 ドイツは黙々と掃除を続けた。イタリアの部屋が済むと、廊下、リビング、洗面所、台所……。玄関。
 目の前の作業に没頭しようとしても、どうしても頭のすみにあの箱の中身が浮かんでしまう。
 知識はあり、どういう用途で販売されているか知っている。しかし、ドイツは実物を目にし、触れたのは初めてだった。
 呆然とした後には、羞恥と怒りが湧いてくる。
 イタリアに向けてか、自分に向けてなのかがよくわからない。けれど五ヶ月前という日付は、ドイツの自尊心をひどく傷つけるのに充分な証拠であった。
 興味本位で男と試してみたが、相手としては不十分で、満足するような悦楽が得られなかった。それ故、その直後に器具を購入して具合を試してみたのだろう。
 あの熱に浮かされた夜、イタリアが気持ち良さそうにしていたのは演技だったのだろうか? 何も無かったような顔をして、ベッドを共にしようとするイタリアは本当にずるい。



つづき
2011.01.20