見つめていたい


 しかめ面の男子生徒は、大股の早足で渡り廊下を歩いていた。
背は高く大柄で肉付きもしっかりしている。パッと見、高校生には見えない。私服で美術館にいくと、チケット売り場でいつも訝しげな視線を受けるのが彼の悩みだった。
 そんな彼には、最近また悩みが増えた。
 彼の通う学園は、10月末に行われる文化祭に向けて少しずつ準備が始まっていた。この秋に三年生が委員会を卒業して、彼、ルートヴィッヒが風紀委員長を引き継いだ。実質二年生が主導となってから初めての行事である。
 ルートヴィッヒは校内で鬼だの鉄面皮だの恐れられてはいたが、なかなかに繊細で優しいところもある。その内面を知る近しい人たちからは、こぞっていろいろ頼られては断わりきれない、という不器用な性格をしていた。もちろん助けてくれる人もいる。しかし生真面目さ故、自分で引き受けたことは、最後まで自分で責任を持たねばならないという信念のもとに彼は生きていた。
 文化祭が近づくにつれ彼の疲労は増していった。少し調べればわかるような、こまごまとした用件まで自分にまわってくることに苛立ち、周りに怒声をぶつけてしまったこともあった。そんな時は深い後悔の念に苛まれるのだ。
 これは、ただの学校行事である。
 ルートヴィッヒは、ほどほどに手を抜くということができない人間だった。
 今も同じ委員の仲間に呼び出され体育館に向かうところだ。渡り廊下から教室棟へ曲がろうとして出会い頭に、走ってきた誰かとぶつかった。
「ごっ……ごめんなさい」
 それは、刺繍の凝った民族衣装を女子だった。劇の練習でもしているのだろうか、丈の長いゆったりとしたワンピースだ。
 ルートヴィッヒはぶつかられても、びくともしなかったので、勢いで横によろけそうになった女子の体を支えた。
 まっすぐに立たせ、顔を上げたその人物はなかなかに整った顔立ちをしていた。深くつやのあるブラウンの髪はおさげに結ってある。それと揃いのまつげはバサバサと音を立てそうなほど長い。何より、胸をざわつかせるような良い香りがした。なんの香りかは思い出せなかったが、春の暖かい日溜まりを連想した。そして爽やかで、静謐でもある。
 ルートヴィッヒはそんなことを考えながら女子に見とれてしまった。慌てて眼を逸らし、もう一度向き合ってから注意する。
「廊下は走るなよ、危ないから」
「でも……」
 その顔に陰りがさし、ルートヴィッヒが不審に思った矢先、女子の走ってきた方向の教室の窓から幾人かの男子が顔を出す。
「おい早くこいよーお姫様! 進まねーだろうが!」
「観念しろよー!」
 その声が明らかにからかいを含んだものであることに、ルートヴィッヒは気づいた。視線を戻せば、女子はその場で口元に手をあて深刻そうな表情で俯いた。
「劇の練習か?」
「キスシーンがあるなんて、きいてなくて」
 そう、ぽつりとつぶやいた。眼の縁には涙がたまっている。
「も、もちろん……、ふりでいいんだろう?」
 そう問い返したが、女子は力なく首を振った。
「リアリティに欠けるからって。でもやっぱり、好きでもない人としたくないんです」
 ついにその瞳から涙がこぼれた。頬に伝い落ちる涙を、女子は手の甲でぬぐう。ルートヴィッヒは、これは完全なセクシャルハラスメントであると判断した。そうとなれば、彼のやることはひとつだ。
「そうだな、君は間違っていない。任せておけ」
 ルートヴィッヒは力強くそう断言し、女子の横を通り過ぎた。
 すごい形相の風紀委員長が歩いてきたのを見て、教室の窓から顔を出していた生徒たちは、みな一様に引っ込んだ。


***

「あっ、風紀委員長さん」
 その翌日の放課後だ。
 顰め面のルートヴィッヒが声に振り返れば、昨日助けた女子がいた。昨日とは打って変わって明るい表情だ。練習の最中に抜けてきたのか、劇の衣装のままだ。隣には付き添いなのか、白タイツを履いた貴族のような格好の男が居る。眼が鋭く凛々しい顔立ちだが、癖なのか口が半開きなので台無しだ。
「昨日はありがとう。すごく助かっちゃった!」
「いや、務めを果たしただけだ」
 昨日よりもずいぶんくだけた話し方になっていて、ルートヴィッヒはどきりとする。満面の笑顔はまるで花束のように明るく、華やかで美しい。
 女子は、ニコニコしながら手に持っていた茶色の紙袋を差し出してきた。
「これ、お礼です」
 そう言われ、ルートヴィッヒはその包みを押し返した。
「ああ、悪いが気持ちだけで結構だ」
「なんで?」
「俺の立場として……、賄賂と見なされることもあるので、一切受け取らないことにしているんだ」
「賄賂……」
 女子の眉尻は下がった。突き返された紙袋を見つめて、しょんぼりと言った。
「そんなつもりないよ。これ、手作りなんだけど、それでも賄賂かな?」
「手作り?」
「パウンドケーキ、チョコ味なんだけど……」
 ルートヴィッヒは自分の顔に血が上るのがわかった。隠すように少し俯く。心臓は早鐘のように鳴り始めた。
 昨日の今日で、お礼に手作りのケーキを焼いてくるというこの愛らしさ! ルートヴィッヒの胸は完全に打ち抜かれていた。なんとかして、友達のような関係になれないものだろうか。そんな考えが、もやもやと頭に渦巻きはじめた。
「て……手作りだとしても、俺が昨日、君のクラスメイトを注意したということへのお礼なら、俺は受け取れない」
「固いね……、でも、そのくらいじゃないと風紀委員長なんてやってられないのかな」
 しばらく沈黙が続き、ルートヴィッヒがどう話題を変えようか考え始めたとき、女子は口をひらく。
「じゃあケーキは友達にでもあげることにする」
 そう言って袋の中身の、ケーキが入っているだろう白い小箱を取り出した。そしてその外装の紙袋だけを、ルートヴィッヒの前へ突き出す。
「これだけならいいよね」
 意味がわからずルートヴィッヒは眉をひそめた。だが、断る理由もないので受け取る。
「なーなー、もう休憩終わるしー。俺ジュース買いたいんよ」
「あ、そうだったけ」
 背後でぶらぶらしていた男子にそう急かされ。女子は去って行った。
 ルートヴィッヒは呆然として、その二人を見送った。そして自分の中に芽生えた感情に驚いていた。
 彼女は見るからに交友関係は広そうだ。ただ、女子より男子とよくつるんでいるのが少し気になっていた。さっき一緒に居た男子とはあまりにも雰囲気がなかったし、友達なのだろうと推測できたが、あれだけ魅力的なのだ、恋人くらいいるだろう。
(俺は何を考えている……)
 あの女子から見れば自分はきっと退屈な男だ。堅物で、周りにいないタイプの男だから、それがめずらしくて興味を持っただけに違いない。交際したりしたら、きっと何も持っていない男だということがバレて飽きられてしまうのだ。まだ友達にもなっていないのに、ルートヴィッヒはそんなことを考えて心を落ち着けようとする。
 ルートヴィッヒは紙袋を持ったまま、ゆっくりと廊下を進み始めた。
 しかし空のはずの紙袋の中から、カサ、と音がする。不思議に思い中をのぞけば、ポストカードのようなものが入っていた。一本のミモザが、見晴らしの良い丘に立っている風景写真だ。そして裏面には文章がある。

”昨日はありがとう 優しい人は好きです 良かったら友達に
×××ー××××ー×××× ”


 思わず立ち止まってしまった。どう考えてもあの女子が書いたものである。
 文面を眺めたまま、ルートヴィッヒはしばらく惚けていた。


つづき