***

「相談があるんだ」
 重い声に驚いて顔を上げると、そこにはいつになく顰め面の友人がいた。彼は背が180以上あり体格もいい。知り合った頃は自分が小さいせいもあってか、こうして見下ろされると威嚇されているようで怖かった。近頃はすっかり慣れてしまったが……。菊はシャープペンを置き、ノートを閉じる。
「予習の最中に悪いな、だが、おまえの意見を聞きたいんだ」
「いえ、かまいませんよ」
 次は移動教室だったので、菊も必要な教科書類を集めて右手に持った。促されるまま立ち上がり、二人で廊下に出た。
 ひと気の少ない西廊下まで歩く。ルートヴィッヒは一つの窓を背にして寄りかかった。そこで菊も立ち止まる。しかし、いっこうにルートヴィッヒが話しださないので、菊は首を傾げた。
「文化祭のことですか?」
 ルートヴィッヒは、持っていたノートの隙間から、一枚のポストカードを取り出し菊に渡した。
「これは?」
「実はな……」
 ルートヴィッヒは落ち着かない様子で話し始めた。先週、嫌がらせをうけている他のクラスの女子を助けたこと。お礼にと手作りケーキを渡されたが拒否し、このポストカードだけ 、気づかずに受け取ってしまったことだ。
「へえ、なんだかいいお話ですねぇ」
そう言ってルートヴィッヒを見ると、なぜか赤面している。菊は驚いていた。
「ええと……電話では上手く話せましたか? その様子だと緊張したんでしょう?」
口べたな友人が必死に携帯電話を握りしめているところを想像して、菊は微笑ましかった。文化祭のことで疲れているようだったので、いい息抜きになればいいと思う。
「電話はまだしていないんだ」
「ええ?」
 菊は眼を丸くして、ルートヴィッヒを見た。
「電話すべきかどうかを、おまえに相談したかったんだ……」
「こ、ここに、優しい人が好き、友達になりたいって書いてあるじゃないですか……! これってルートヴィッヒさんのことじゃないんですか?」
「そうかもしれないが」
「もらったの先週なんですよね?」
「先週の火曜だ」
 今日が火曜日で、もう丸一週間経ってしまっている。菊は大きなため息をついた。
「なぜ電話しなかったんです?」
「俺は彼女がせっかく作ってくれたケーキを……、突き返してしまったし」
「それは皆に公平になるように、以前から決めていることなんですから」
「しかし、俺が勝手にやっていることで、生徒手帳に書かれている規則ではない」
「そうですけど……」
「気を悪くしただろうと思うんだ」
「いやぁでも」
 ポストカードを返しながら菊はいろいろな方向から想像してみた。
「ケーキを返した後に、これだけくれたんでしょう? 気を悪くしたのならきっと何も渡しませんよ」
「社交辞令ということもある」
「ルートヴィッヒさん」
 菊はめずらしく強い声を出した。
「彼女と友達になりたいのなら、今すぐ電話です」

***

「や……やあ」
「あれー、どうしたの?」
放課後、ルートヴィッヒは通りかかったふりをして、女子のクラスを訪ねた。
「ちょっと待ってね、もう休憩になるし」
 しばらくして廊下に出てきた彼女は笑顔だった。ルートヴィッヒはそのことに安堵する。昼休みに勇気をだして電話をかけたが繋がらなかった。
 一週間も経っているからもう電話してこないとふまれているのでは、と菊は助言した。とにかく会って話すのが一番良いと、気の進まない様子のルートヴィヒにはっぱをかけたのだ。
「ねえねえ、ほら、紙袋渡した時ポストカード入ってなかったかなぁ?」
「ああ、これだろう」
 ルートヴィッヒは持っていたプリントの束の一番上に置いておいた、例のポストカードを見せる。
 女子はそれを手にとり、まじまじと文面を確認している。
「うーん、俺、電話番号間違えてると思ってたのに」
 俺、という一人称にルートヴィヒは少し驚いていた。しかし、昨今では女子でも俺や僕、といった男性の一人称を使うこともあるらしい。これは以前菊に聞いていたことだった。
「あ、もしかして今日の昼のって、委員長さんのだった?」
「ああ」
「ごめんね、もうこないと思ってたからさ」
 そう言って少し悲しげに呟いた。ルートヴィッヒは、自分がなんてバカなことをしでかしたのだろうと心の中で何度も己を叱責した。
「すまない。いつかけたらいいのか、わからなくて……」
「いつだっていいのに。でも、わざわざ伝えにきてくれたってことは、友達……?」
 尋ねてくる笑顔は、すでにルートヴィッヒの心をわしづかみにしていた。
「あ、ああ……だが、よく考えたら君の名前を知らない。俺はルートヴィッヒ・ヴァイルシュミット。A組だ。」
「そうだったね。俺は、フェリシアーノ・ヴァルガス。お菓子作るの好きなんだ」
 ルートヴィッヒは、さすがにそれが男の名前であることには気づいた。
 何度か瞬きをして、念のため指摘してみる。
「フェリシアーノっていうのは……、男の名前だったような気がするが……」
「うん、そうだよ?」
 目の前のフェリシアーノはきょとんとしている。しばらく、二人で視線を交わしたあと、フェリシアーノはものすごい勢いで、胸の前で手をふりはじめた。
「あれー? あっ、こんな格好してるからだね! これ女装! ほら髪もとれるしさー、あーびっくりした」
 お下げの髪は、地毛に編み込んであったらしい。強く引っ張ると耳の下でするりと取れた。
 ルートヴィッヒは、呆然と固まっていたが、やがて自分を取り戻した。
「そ、そうだったのか。いや、驚いた……。よく似合うといわれないか?」
「うん、だからこんな役まわってきちゃったんだ」
 男だとわかっても、フェリシアーノの笑顔が好ましいことは、変わらなかった。それどころかルートヴィッヒは余計な緊張が解け、普段の自分を出せるようになった。今まで下心があったのがいけなかったのかもしれない。フェリシアーノは話すのが好きなようで、こちらが黙っていても、会話が途切れることはなかった。なかなかに楽しく、今度はメールアドレスを交換して、ルートヴィッヒはその場をあとにした。


***


 文化祭の季節がすぎると、時間に余裕ができ、ルートヴィッヒとフェリシアーノの中は急速に深まっていった。フェリシアーノは、ルートヴィッヒの一番の友人である菊ともすぐに仲良くなり、学校から一番近いルートヴィッヒの家に三人で集まったことも何度かある。
 もとから、ルートヴィッヒと菊はドライな友人関係であったっため、互いの家にも行き来したことがなかった。菊がかなり遠距離通学だったこともあるが、フェリシアーノはしきりに驚いていた。
 そして12月初旬、ルートヴィッヒはまた新たな悩みを抱えていた。
 秀才であるルートヴィッヒに教えを乞おうと、試験期間のずいぶん前から、フェリシアーノはルートヴィッヒの放課後を独占していた。
 ルートヴィッヒは人に勉強を教えるのは嫌いではなかったし、向上心のある場合ならむしろ歓迎していた。
 しかし、フェリシアーノはどうにも集中力が続かないのだ。原因はなんなのか、自分の教え方が悪いのか、いろいろと探ってみたがわからなかった。けれど図書室で待ち合わせれば、時間には(いつも10分程度遅れるが)必ずやってくるし、やる気がないわけではないらしい。
 そして今日も、ルートヴィッヒは困惑していた。
 いつものように待ち合わせ、一番窓際の長机の端に並んで席をとった。
 座って30分ほど経過したところだが、先ほどから、フェリシアーノは隣に座る自分の顔をじっと見つめている……、ような気がしていた。ペンを持ってノートを広げているが、手は全く動いていない。無視して数式をといていたが、どうにも視線が気になって仕方ない。
 ルートヴィッヒは我慢ができなくなり、顔をあげて隣に眼をやった。目が合うと、フェリシアーノはニコリと微笑む。
 知り合ってもう二ヶ月近くになるが、ルートヴィッヒは、フェリシアーノの笑顔に異様に弱かった。
 初対面からしばらくの、女子と思い込んでいた時の影響もあるのかもしれないが、彼の笑顔を見ていると意味もなく嬉しくなってしまうのだ。胸がざわめき、そこに、何か新しい活力のようなものが生み出される気がしていた。嫌なことがあっても、彼の前に立てばあらかたのことは飛んで行ってしまうので、気分が良かった。
 放課後の誘いを、まだ一度も断ったことはない。一日の締めくくりににフェリシアーノの顔を見たいという欲望が、少なからずルートヴィッヒの中にあった。
「どこかわからないか?」
「ううん」
そうは言ったが、フェリシアーノはまだじっとこちらを見つめている。
「何か顔についてるか」
「眼がさ、透き通ってて……キラキラしてて、水の中みたいだね。ルートヴィッヒに似合ってる」
 フェリシアーノはたまに、恥ずかしげもなく詩人のようなことを言う。普通の会話の中に突然混ぜ込んでくる。ルートヴィッヒはそれに面食らうことがよくあった。
 フェリシアーノの視線はじっと定められたままだ。
「見るなよ」
「えへへ」
 いっこうに言うことを聞く気がないようなので、ルートヴィッヒは我慢が出来なくなって、その頬を押し反対側を向かせようとした。
 しかし、手に触れた頬が思ったよりもずっと柔らかかったことに驚いて、押す前に手を引っ込めてしまう。結果、指先でそっと頬を撫でただけになり、ルートヴィッヒは慌てた。
「ごみが……ついていたんだ」
 そう言って、手先をズボンで払うふりをしたが、なんだか不自然だった。本当なら指摘して、自分でとらせればいいのだ。
 思った通りフェリシアーノも驚いて表情をなくしていたが、だがとっさの言い訳を素直に信じたようだ。ありがとう、と言って、微笑んだ。
 目が合うと、なぜか口元が緩みそうになり、ルートヴィッヒはごまかすように咳払いをして前を向く。ようやくフェリシアーノはペンを滑らせ始めた。彼の書く字は、少し丸っこくてクセがある。綺麗とは言えないが、ルートヴィッヒはそれを好ましく思う。
 その頃のルートヴィッヒは、好感の正体がなんであるのか、まだ気づいていなかった。

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2010.10.25