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「へへ、びっくりしたぁ〜。ねえこんなこと初めてだね! ドイツが誘ってくれるなんて……」
「あ、ああ……」
 約一ヶ月ぶりに顔を合わせたイタリアは、こちらが拍子抜けするほど、以前と変わらなかった。オーストリアから話を聴いてすぐ、俺は電話口でイタリアに詫びた。
 そして翌週直接会えるように、イタリアを動物園へ誘った。行きたい、と返事があったことに安堵する。
 もちろん今日、話をつけようと思っていた。
 イタリアがどんな態度でいようと、もう一度きちんと謝ろうと考えていた。けれどイタリアは、まるでここ一、二ヶ月の出来事など忘れてしまったように元気だった。俺を引っ張って歩き、大げさなほど動物に喜ぶ。
 すべてを周りきる頃には陽が沈みはじめた。俺もすっかり緊張がほぐれ、近頃のわだかまりなど、遠い昔の出来事のように思えてくる。
 イタリアが振り返って俺を見るたびに、胸が甘く疼いた。以前はこんなことを感じていただろうか。
 あたりまえになりすぎて、忘れてしまっていたのかもしれない。
 イタリアはどんなふうに今を感じているのだろう。
 そして、俺は強く思い出す。
 友人でありながら、イタリアを陵辱した。俺は自ら信頼を断ち切ったのだ。
 イタリアは忘れようとしている。
 それに甘えることもできるが、それではまた何時、俺がこんな馬鹿をやるかわからない。
 閉園の一時間前に、俺たちは出口に向かった。
 俺はわざと人通りの少ない回り道を選び、イタリアを誘導した。
 イタリアの表情を横目で確認すると、ジェラードに乗っていたクリームが、口の端についていることに気づく。
 反射のように手を伸ばして拭おうとすると、イタリアは一歩奥へ避けた。何事かと警戒しているようにも見えたので、俺は仕方なく自らの口元を示し、指摘する。
「ここに……、クリームがついてるぞ」
「あっ、ああ、…うん!」
 イタリアは慌てて手の甲で口元を拭い笑った。
「イタリア、この間は本当に済まなかった。電話でも言ったが……俺は本当にどうかしていた」
「あ、いいよいいよ〜、もう」
「……言い訳をすれば……。仕事があまり捗らなくてな、苛々していたんだ。そこで、その」
 保身のために真実を言おうとしない己の弱さに呆れていた。ここまできて、まだ体裁を気にしている。
「うん、わかるよ。そういう時もあるよね! 電話でも謝ってくれたし、もういいよ」
「イタリア、どうして俺を責めないんだ」
 俺は歩みを止めてそう言った。
 イタリアも同じように立ち止まる。
「自分で言うのもなんだが、最低なことをした自覚はあるんだ。俺に文句を言う気がないのなら、どうか一、二発なぐって欲しい。そうすれば」
 そこまで言って、俺はまた自分が楽になる方法を探しているのだと気づいた。そんな代償で無に返せる出来事ではないというのに。俺は口を閉じ、ため息をついた。今日はイタリアに謝りにきたのだ。責め立ててどうする。
「いや……、まあいい。それでな、俺はオーストリアにすべて聞いてしまった」
 サッとイタリアの顔色が変わる。
「すべて……って」
「旅行のことをオーストリアに相談していたと」
「えーっ……! 秘密って言ったのに」
「おまえが、なにも報告しなかったからだろう」
「だってさ、ドイツとは行けなかったし……。どう言ったらいいか……わかんなくて」
「それと、俺に対して特別な感情を持っていると」
「……えっと、あっ! 早く行かないと、門、閉まっちゃうんじゃない?」
 話題を逸らそうと、慌てたイタリアの手首を掴んだ。
「ドイツ、行こ」
「俺は誤解していたんだ」
 その内容を説明すると、イタリアは力なく笑った。
「たまに、ああやってからかいたくなっちゃって……。そっか、見てたんだー……」
「まぁ……、あいつにも聞いて、色気も何もないものだとよくわかったが」
 イタリアの言う通り、単なるスキンシップである。それでも、頬にキスはしても、唇になんてここ数年したことがなかったという。その何十分の一の確率に俺はあたってしまったというわけだ。
「そっかー……」
「……あまりに絵になっていたものでな。俺は疑いもしなかった」
「うはー」
 イタリアは少しはにかんだ。俺はようやく心のうちを吐露できて、いくらか気が楽になる。
「だが、結局そんなことは言い訳だ。俺が自分の欲のために、お前を傷つけたのは事実であるし」
「欲……?」
「ど……独占欲だ」
 イタリアは前を向いた。ほとんど中身の残っていないジェラードのカップの中を、かき回している。
「独占欲? だってドイツは」
 俺は決心していた。今言わなければ一体いつ言うのだ。
「お前が、俺に会いにきているのだと思っていたから」
「もちろん、そうだよ?」
「ああ……、もうわかったんだ」
 一歩距離を詰め、イタリアの頭に手をやる。今度は見つめ合っているせいかイタリアは避けなかった。
 耳の下に手を添え、大きく息を吸い言った。
「お前に会えなくて……、俺は心底、自分のしたことを後悔した。どれだけ、俺の生活におまえが必要だったか、思い知ったんだ」
「お、俺、特に何も……、できないけど。あっ、パスタは作るけどでもさー、おまえんちに居る時は、ほんとなんもしてないし寝てばっかりだし」
 そう俯きがちに言うイタリアと目が合う。
「好きだ」
「ほ……ほんと?」
 イタリアは眉をひそめた。だが口元は緩んでいる。俺はうなずき、用意していた小さな紙袋を取り出した。渡すと、その顔がパッと明るくなる。
「わー何?」
「留め輪が壊れそうだと言っていただろう」
 イタリアの手のひらに、細い銀色の鎖が流れ落ちる。俺が好むようなごつごつとした鎖は、イタリアの首には似合わないと前から思っていた。機会があれば新しいものを贈るつもりだった。潮風や海水に触れることが多いというのに、ずぼらなこいつは、常に身につけていれば劣化などしないと思っているようだ。それでも少しはマシかと思い、プラチナを買った。
「ありがとー」
 イタリアは背伸びをして、頬にキスをする。その仕草は以前と寸分も変わらない。さっきから目は潤んでいたが、瞬きによって、その頬にひとすじ涙がこぼれた。
「寂しかったよぉ……ドイツ」
 しっかりと俺の胴を抱きしめ、イタリアは泣きじゃくった。

       ***

 俺は誘われるままイタリアの家までやってきた。
 玄関のドアを閉めた途端、イタリアがぴったりと体を寄せてくる。
「えへ……、キスしてもいい?」
 そう訊いてきたイタリアの唇を、先に塞いだ。
「あはは、すごーい、おまえとキスしちゃった……」
 照れているのか、イタリアはやけにはしゃいでいた。
「ロマーノは?」
「今日はいないんだ。スペイン兄ちゃんとこ。明日帰ってくるよ」
「そうか」
 もう一度唇をついばみ、ゆっくりと舌を差し入れる。すぐに応えてくれたイタリアが愛おしくてたまらなかった。
 笑顔のイタリアは俺の背を軽く撫で、体を離した。
「お腹すいたね。俺、軽くなんか作るから待ってて」
 先に廊下を進むイタリアを引き止めた。そしてもう一度深く口づける。
「そんなに、腹が空いているのか」
「え? ……ええー、うん。なんだかほっとしちゃってさー。ねえパスタでいいかなぁ?」
「ああ」
 話しながらイタリアを、廊下の壁に追いつめていた。
 俺がなかなか動こうとしないので、イタリアは腕に触れてきた。
「やっぱり他のものがいい?」
「おまえがいい」
 イタリアは一瞬、意味がわからなかったようで固まっていた。やがて頬を赤くしたが、腕にまわされた手は離れない。俺はしつこく言った。
「この間のこともある。……だから、俺は決してお前の嫌がることはしないと誓おう。そしてお前が求めてくれるなら」
 イタリアが強く抱きついてきて唇が重なる。軽いもので終わらなかった。角度を変えて何度も互いを貪り合う。舌を絡ませ繰り返し、やがてようやく顔を放したイタリアは息を切らしていた。
「愛してるよ……」


 食事のあとシャワーを浴び、後から来るイタリアを待った。
「おいこら」
 イタリアは裸にシャツ一枚を引っかけ、頭からまだ水滴がしたたっている状態で部屋に入ってきた。
「髪ぐらいちゃんと拭いてこい」
 意気揚々とベッドに上がり、胸に飛び込んでくる。
「えへへー」
 手には乾いたタオルが握られている。甘えたくてこうしたのだと気づいて、俺は赤面した。
 普段ならば、叱られると分かっているので、水滴を落とすような状態ではさすがにやってこない。
「ふいてふいて」
「まったく……」
 タオルを受け取り拭き始めたが、そのうちイタリアは思い切りよく俺の腿にまたがった。柔らかい尻の感触に狼狽する。あらかた髪の水分を拭き取ってしまいタオルを下ろすと、妙な緊張感が走った。
 イタリアはじっとこちらを見つめている。俺は見つめ返して言った。
「や……、優しくする」
「うん」
「痛いだとか……嫌な事があれば、すぐ言うように。それとまた俺が無体を働くようなことがあれば、お前は、その辺のもので俺を殴っていい」
「う、うん…大丈夫だよ」
「明日の朝食は俺が作る。台所を使わせてもらうが」
「うん、あるものなんでも使ってー」
「そういえば明日、兄貴はいつ帰って来るんだ?」
「えっと……、よくきいてないけど、夕方涼しくなったらかなー?」
「わかった。……念のため、もう一度訊くがほんとうに」
 口にした途端、イタリアは吹き出して笑った。それと同時に玄関の開く音がする。
 バタバタと足音が入ってきた。
 一瞬顔を見合わせた後、イタリアは立ち上がり部屋の外を覗く。
「おいこらぁー! ヴェネチアーノ、水持ってこい!」
 イタリアはこちらを振り向き、手で待っているように示すと、するりと部屋から出て行った。
 階段下から聞こえてくる声は、ロマーノのものだけではなかった。
 靴を履き廊下に出て、手すりから下を見下ろす。イタリアが水の入ったコップをロマーノに手渡しているところだ。受け取り損ねたロマーノは、半分ほどこぼしてしまっている。
「なんか拭くもん……」
 隣に居たスペインが首に掛けていたタオルらしきもので、濡れた床を拭いた。
「しゃーないなぁ、気いつけや。なぁイタちゃん、これチョコレート味、はちみつ味やろぉ、そんでこれがトマト味やね。めずらしいやろ〜、実は俺も見たのはじめてやったん。ロマーノがなぁ、これきっとイタちゃん喜ぶわって」
 イタリアに、菓子の入っているらしい紙袋を押し付けている。
 二人とも異様に声が大きく、床に寝転がったままだるそうにして起き上がらない。泥酔しているのは明らかだった。イタリアは肩を貸し立ち上がらせようとしているが、どうにもならないようだ。
「言ってねーだろちくしょー!」
「似たようなこと言ったやーん。酒はいってるときくらい、素直になったらええんちゃうの」
「てめーがあることないこと……! おいヴェネチアーノ、水! スペイン顔近づけんじゃねぇ」
 困り果てているイタリアが顔を上げ、目が合う。俺は仕方なく降りて行った。
 とりあえず二人を居間のソファまで運んだ。ロマーノはすぐにそこで寝入ってしまったが、スペインはなぜか持参した酒瓶を開け、あおり始めてしまった。酒を奪ってから言いくるめて、なんとかロマーノの部屋に連れて行き無理矢理ベッドへ寝かせた。
 俺とイタリアは、スペインの支離滅裂な話を聞かされ続け、さっきまでの甘い雰囲気など、どこかへ吹き飛んでいた。
 しかもスペインは俺とイタリアの仲をしつこく褒め、羨ましがり(まるで悪気のないものだったが)、なぜかイタリアにキスをせがむ。
「俺は帰った方が良さそうだな」
 二人でロマーノの部屋を出て、俺はそう呟いた。
「ごめんね、うるさくなっちゃって……」
「いや……」
「ほんとに帰る?」
「明日ロマーノが不機嫌になるだろう」
「う〜」
 イタリアは頭を抱えた。
「お前が文句を言われる」
「でもさ、スペイン兄ちゃんがいるし、大丈夫かなーって思うんだ……。俺は別になんて言われたっていいけど、ほんとにドイツ……いつもごめんね」
 ロマーノの罵声はもう性格のようなものだと思っていた。いつのまにか聞き流せるようになったので、居心地が悪いだけで気にするほどでもない。
 それでも兄弟仲がこじれるのは、俺は見ていて気持ちよくない。だからイタリアの家にくるのは、ほとんどロマーノがいないとわかっているときだ。
「帰りたい……? ドイツ」
 それに加えやましいことをしようとしていたのだから、俺はなんともいたたまれず、落ち着かなかった。こんな状態で事に及んでもいろいろ失態を犯す気がする。
 イタリアは、申し訳なさから俺に居てほしいとは言わないのかもしれない。だが帰れとも言えないのか……。
 どちらにしろ、俺に答えを委ねているように見えた。悩んだが、不安そうにしているイタリアの手をとった

 部屋に戻り、ベッドでイタリアの上に覆いかぶさると、俺の緊張は限界に達していた。
 その緊張が伝わっているのかイタリアは沈黙していて、それがやけに不自然に思え、俺は焦った。
「……ドイツ、大丈夫……?」
 ついには心配そうにそう尋ねられ、問題ないと答えたが、顔から火が出そうに恥ずかしい。この家に入ってきた直後が一番自然に触れ合えた気がする。
 俺はなかなか手が出せなかった。
 イタリアを無理に抱いた時は征服欲しかなかった。
 こうして平等になり向き合えば、自分がイタリアを気持ちよくさせられるのか、その自信がまるでない。あの日を思い出させ、悲しませるような気がしてならなかった。
「さっきの勢いはー? おまえがいい、って言ったのに」
「……すまん」
 俺は身を起こした。追いかけるようにイタリアも肘をついて起き上がる。
「ね、ドイツ。そんなに気にしなくていいよ、前のこと……」
「しかし」
「俺はー……、そのときは悲しかったけど……、何度も、そのぉ……ネタにしちゃったから」
「……なん」
「なんだか後ろめたくってさ」
 それ以上茶化す様子も無く、少しはにかんだままイタリアは口を閉じた。
「そっ」
 俺は言葉を止め少しむせた。
 そしていよいよ八方塞がりで、なんと返していいのかわからなかった。
 叱るのは違う。それだけはわかるが、呆れて良いものか。しかし万が一イタリアが俺に気を使ってこういう風に言っていた場合、俺の態度はとても重要だ。
「それならば……良かっ……、いや良くないが、だが、ほんとうに俺は」
「じゃー俺が襲っちゃおうかな」
 イタリアが抱きついてきて首筋にキスをした。耳元をまさぐり、頬をすりつける。
 時折甘噛みをして、唇は飽きることなく肌をたどった。
「い、イタリア」
「ドイツのにおい……ひさしぶり」
 後頭部を撫でながらイタリアはキスを繰り返す。
「大好きだよ……」
 ぎゅうとしがみつかれると、なんともいえず温かい気持ちになった。これが愛というものなのか、と俺はぼんやり感じ、いつのまにかイタリアの頭を撫で返していた。



つづく


2010.10.14