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 結局イタリアは、都合のついた兄のプロイセンと旅行に出かけた。
 兄はずいぶん喜んだので、俺の罪悪感は少し薄れた。明るい道中だったようで、二人の土産話は聴いていて気分の良いものだった。俺はとにかくこの出来事が通り過ぎて良かったと、胸を撫で下ろした。
 しかしこれがよくなかった。
 罪悪感に慣れてしまったのか気の迷いか、そのあと、俺は二回もイタリアの誘いを断った。美術館と食事だ。イタリアはさすがに訝しんでいたが、何も言えないようだった。
 その頃には、ようやくイタリアも俺の不審さに気づいていた。
 そして少しずつ溝ができた。
 イタリアが離れていくことによって、日々の生活が落ち着きを取り戻しつつあることに、俺はなぜか安堵していた。
 だがある日、やけに神妙な顔でイタリアが部屋に入って来た。俺は机に向かっていたが、すぐにその様子に気づいて顔を上げ振り返る。イタリアは何か言いづらそうに視線を泳がせていたが、しばらくして口にした。
「ねえ、先々週の土曜日……ハンガリーさんとご飯食べた……?」
 それは丁度、イタリアと兄が避暑地に出発した次の日。会議があるのだと嘘をついた日だった。
 否定はしなかった。
 ハンガリーから聞いたのだろう。確かに口止めなどしなかった。
 あの日、スーツを着込んで家を出たが行く先などなかった。時間の合った飛行機に適当に乗り込み、行き当たりばったりで国をふらついていたのだ。
 ハンガリーに会ったのは全くの偶然だった。彼女はただ久しぶりと言い、いつもの笑顔で食事に誘ってきた。気が沈んでいるところへ優しくされたら断れない。互いの近況を知らせあい、彼女は用があるというのでごく短い時間で別れた。
「ハンガリーさん、ドイツに偶然会ったって言ってたよ?」
「ああ、偶然だ」
 ハンガリーと俺が会ったのは、イタリアに告げていた場所とは正反対に位置する町だった。今更取り繕う気もない。
 イタリアは泣きそうな顔をしていた。
 だが俺の心は反して頑になっていく。
 きっとイタリアは謝罪を求めているのだろう。何か言い訳や、理由を求めているのだろう。だが謝る気にはならなかった。
 俺は女々しくも、あの朝の光景を忘れられずにいる。素直になろうと思うたびに、自尊心が邪魔をした。
 なにも言わずにいると、イタリアは自ら訳を探し出そうと訊いてきた。
「えっと、場所が変更になったとか?」
 まだ信じようとしているのだろうか。うんざりしてため息をついた。
「……旅行は、兄貴と行って楽しかったんだろう。それでいいじゃないか。過ぎた事だ」
 イタリアが息を飲むのがわかった。
「うん……楽しかった。だけど……ドイツと行きたかったんだよ。何か理由があったんなら、言ってくれればいいのに。こんな嘘なんてつかないでさ。俺だって無理になんて言わないし、ほら、なんなら途中から合流したって良かったのに」
「理由なんて無い」
 静かにそう言うと、俺は椅子から立ち上がった。
 イタリアは目を丸くしてこちらを見ている。
「おまえと行く気が起きなかった」
「えっ」
 イタリアは口ごもり、そして俺を強い眼差しで見る。
「ねえ……、俺なにか気に触るようなことした?」
「いや」
「謝らないのは、俺に怒っているからなんでしょ」
「なにもない」
「もう嫌だよ」
 正面から強く抱きついてきた。その感触に全身の血が沸き立つ。いますぐに抱きしめ返したい。
 けれど同じ手がオーストリアの肩にまわっていたことを思い出してしまい、すぐに考えが打ち消される。俺はついに口にしてしまった。
「……おまえが、頻繁にこの家にくる理由」
 口にした途端、イタリアの体がこわばるのがわかった。
「オーストリアさん、何かおまえに言った……?」
 その名が出て、いよいよ絶望的な気持ちになった。
「何かというか……、共同生活をしていれば、自然とわかるものだ」
 キスを目撃した事を言っても良かったが、じっくり二人の様子を盗み見した後ろめたさが、それを躊躇わせた。
「そ、そうなのかな…」
 ぬくもりが離れ、確認したイタリアの顔は、今までに見たことがないほど狼狽していた。
「そっか、知ってたんだー……」
 額に手をあて、俯いたイタリアの前髪がぱらりと揺れる。
「黙っててごめんね……。ずっと言おうと思ってたんだ。ほんとは、旅行の時に言おうと思ってた……。ほら、いつもと同じじゃ、勇気でないからさ。ごめんねドイツ、隠してて……」
 イタリアは眼のふちに涙をためた。
 口端はかろうじて上がっているが震えている。怯えているようにさえ見えた。
「ごめんね、そっか、だから俺のこと避けてたんだ……」
 陽気さは消え去っていた。
 オーストリアとの関係を、俺に対してこんなに後ろめたく思っていたとは考えていなかったので、少し驚いていた。バレたらバレたで、あっけらかんとして、また無神経なことを言ってくると想像していたのに。
 こんなふうに傷つけてやりたいと思っていたが、実際に落ち込んでいるところを目にすると、いてもたってもいられなくなる。このあいだ、旅行を断ったときにも感じた。
 俺は我慢できずに口にする。
「まあ本来…、俺がどうこう言う事じゃない。おまえの好きなようにすればいい」
「俺の……すきに?」
「ああ」
「どういう事? ……だって、おまえの気持ちが……あるじゃん」
 その言葉を聞いて頭に血が上った。
 イタリアの肩を強く掴む。
「俺の気持ちなんて、どうでもいいんだろう! そうでなければあんな……」
「ドイツ?」
 戸惑っているイタリアの唇を奪った。
 唇の感触は知っていたが、こんなふうにしっかりと口と口を合わせるのは初めてだった。ここから甘い声が発されるのかと思うと、たまらない思いがする。
 イタリアはされるがままだ。顔を離すと、数度瞬きをしてから、じっと俺を見つめてきた。拍子抜けするほどになんの抵抗もなかった。
 肩から手を離し、逃げられるようにしたが、イタリアは突っ立ったままそこを動かない。
 少しの沈黙のあと、俺は再びその肩をつかんでしまった。
 力を加えれば、簡単にその方向へよろめく。
 いつのまにか、イタリアをベッドに倒していた。
 その服は今日に限って、きっちり上まで襟が閉じられ、群青色のタイが廻っている。手をかけても、イタリアは俺を見つめているだけだった。薄く開いた唇を眺めるうちに、まるで、イタリアも俺を求めているような都合のいい錯覚を覚える。そんなこと、あるはずはないと頭では充分に理解していた。
 俺の感じている情欲はとても強い。組敷いた体の肉感と、今すぐ一つになりたかった。

***
 

 それからぱったりと、イタリアは家にこなくなった。
 連絡もよこさなくなった。
 あたりまえだ。
 自分で導いたことではあるが、俺は想像以上の喪失感に驚いていた。
 どうしてあんな乱暴をしてしまったのか、後悔しか残っていない。一時、我慢すれば済んだはずだ。あんなことさえしなければ、いくらでも修復のしようがあった。
 イタリアは行為から解放されると、適当に服を身に着け、俺が何か言う前に部屋から出て行った。足音は階段を下り、玄関のドアが閉まる音が聴こえた。けれど俺は窓から外を見下ろすことさえ躊躇った。
 顔を思い浮かべると気が重く、このままでいいわけがないと思いながらも、すぐに謝りに行く気にはなれず、だらだらと毎日を過ごしていた。
 だが、ふとした瞬間に、強烈にイタリアの顔が見たくてたまらなくなる。例えば料理の出来が良い時や、居眠りをしてしまったあと。道端で猫を見かけた時など。
 思い悩んで何週間か過ぎた朝、朝食を作っている最中に、起きてきたオーストリアが話しかけてきた。小脇にはベルリッツが取ってきた新聞をはさんでいる。
「イタリアと喧嘩でもしたんですか」
「喧嘩などしていない」
「はあ……」
 オーストリアは大げさなため息をつき眉をひそめ、やれやれといった様子で、ソファに腰掛けた。テーブルに新聞を広げながら呟く。
「あなたが旅行を断った時から、こうなるんじゃないかと思ってましたけどね」
「……どういう意味だ」
 俺はコンロの火を止め、ソファに近づいた。
「私が宿の手配をしたんです。あそこは秋薔薇に湖に、ロケーションがいいですから、この時期予約をとるのは難しいんですよ。プロイセンと行ったんじゃ、どこかテーマパークのほうがよかったでしょうに」
「イタリアに頼まれたのか?」
「まあそうですね……」
 オーストリアは深くため息をつく。
「イタリアは何も話そうとしないので、あなたに聞いても良いですか? ええ、まあ、こういったことに首を突っ込むのは、私も本意じゃありませんけど、自分が世話を焼いたこともあって、把握しておきたいのです」
「何をだ」
「事の顛末をですけど……」
「事の?」
「イタリアは、あなたに告白したんでしょう」
「……告白、というとおまえのこと」
「私のこと? 私に相談していることですか?」
「相談?」
 オーストリアは噛み合わない会話に、咳払いをして眉根を寄せた。
「失礼、どうやら私は早とちりを」
「相談とは? なんの相談だ」
 オーストリアをじっとみつめる。
「言ってくれ」
「ですから……、あなたのことを相談していたんです」
「俺のことを?」
つづき


2010.10.11