パリの12月 4



 別宅を訪ねた翌週、フランスはパリに戻ってきているのだと電話を寄越してきた。丁度都合が合ったので昼にカフェのテラス席で待ち合わせした。
 フランスは、ドイツに透明なふた付きの瓶を渡す。手のひらほどの大きさだ。
 中にはティーバッグがいくつか入っていた。なんでも知り合いに植物療法士がいて、そこへ細かい事情は伏せながら頼んでおいてくれたのだという。ドイツもハーブはすでにいろいろ試していたが、ありがたく受け取った。プロのものならば試してみる価値があると思えた。
 それに加え、都合が悪くなってしまったのだ、と言ってオペラのチケットを二枚譲ってくれた。イタリアと行けとは言ってこなかったが、ドイツはそういうことなのだろうと察した。何よりドイツ自身、イタリアに会いたいという気持ちが募っていた。近頃では夢に見るほどだった。
 人の多いところでは、イタリアもさすがにくっついて歩くのを自粛するし、直接触れ合わなければ、そこまでひどいことにならないとは解っていた。オペラを見るという健全な目的があれば、イタリアから意識を逸らすことができるだろう。
 ドイツはその日の午後、フランスに貰ったハーブティーを飲んでから出かけた。わざとぎりぎりに劇場へ着くよう計算し、ロビーでのハグとキスをなんとか躱して席についた。普段は時間にルーズなイタリアだったが、興味のある舞台観劇に関しては、間に合うようやって来るのが常だった。
 ドイツが大丈夫かもしれないと確信を持ったのは、舞台が始まって一時間ほど経過した頃だった。時折、隣からふんわりと流れてくる香水をかいでも、なんともない。以前はそれだけで胸が、……そして下半身が燃えるように熱くなるのがわかった。今は、イタリアの匂いが、久しぶりで懐かしいという気持ちしかない。
「ハッピーエンドで良かったぁ」
「そうだな」
「フランス兄ちゃんが好きそうな話だったね」
 幕が降りホールから出てすぐ、ドイツはイタリアに触れてみた。
 イタリアが前を見て歩かないので、人にぶつかりそうになったのを腕を引っ張って止めた。ロビーは混み合っていた。
 あの、触った途端に体中の血流が勢いよく巡るような感覚は一切ない。
 全く、会議前と同じ状態に戻った。湧いてくるのは、俺がイタリアについていてやらなければ……という純粋な庇護欲だった。再びこの気持ちが戻ってきたのだと思うと、ドイツは歓喜に震えた。フランスと、そのフランスの知り合いには、どれほどの礼を尽くせばいいかわからない。
 イタリアの前で、堂々とした自分でいられる。
 あたりまえの幸せというのは、失って初めて気づくものだと、映画や本でよく言われているが、ドイツは身を持って実感していた。
「イタリア」
 ドイツは、今言わなければという危機感が先攻して、タクシー乗り場まで向かう途中、歩道のど真ん中でイタリアを引き止めた。劇場から出てくる人々の流れを遮ってしまう。
「今日のことで……おまえを誘ったのは、驚いたと思うが」
「うん? そうだね……すっごく驚いたよ」
 イタリアは困ったような顔で少し眉根を寄せ、それでも笑っていた。
「実はしばらく、顔を合わせたくない事情があったんだ」
「事情って……?」
イタリアは首を傾げる。
「それは説明できないんだが、けれどその……、おまえが会いたがるから、会えない理由を作る必要があった。おまえは、好きだとか嫌われるとかそういうのを、ことさら気にするからな。ただ避けているばかりでは誤解するかもしれないだろう。俺がおまえのことを嫌っているのだとか、そんなことは決して……」
 ドイツが緊張のあまり、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた頃、イタリアは人にぶつかられてしまった。ドイツはようやく邪魔になっていることに気づいて、イタリアの腕を引き寄せ、二人で建物の壁に寄る。
「す、すまん……。気が利かなくて」 「ドイツ、大丈夫だよ。えっと……てゆーかタクシー乗って、ホテルで話す? そのほうが落ち着くよね」
「イタリア!」
「はいっ!」
 ドイツはイタリアと正面から向き合い、両肩を音がしそうなほど強く掴んだ。イタリアは反射的に返事をして、肩をすくめた。
「要するに、恋人がいると……、言ったがそれは嘘なんだ」
「ええ?」
 イタリアは目を大きく見開いて驚きの声を上げ、固まった。視線だけは、互いから少しも離れない。
「もぉー、プロイセンより俺に先言うのって、なんか変だと思ったぁー……」
 笑顔になったが、それはほんの一瞬だった。
「とりあえず……。寒いし、はやくホテル行こ?」
 目を逸らすとそう呟いて、ドイツを引っ張り、タクシー乗り場に向かった。タクシーに乗り込んだ後も、イタリアは何か考え込んでいる様子で、口数が少なかった。次第に空気は重くなり、口を開くことに緊張が伴うようになる。困ったドイツが、今朝の朝食について話を始めたところで、イタリアが急に、ドイツの話を遮るように声を発した。
「俺ね、お前に恋人が出来たら、喜べるって思ってたんだ」
 ホテルへ向かう10分ほどの車内で、イタリアはドイツの首元に頭を預け、泣いた。

***

 ホテルは、ドイツがまとめて手配していたので隣室だった。けれどイタリアは荷物を置きに行っただけで、結局ドイツの部屋に入り浸った。
「へへ」
 嗚咽をもらすほど泣いてしまった事が照れくさいのか、イタリアははにかんでいた。服を脱ぎドイツより先にベッドへ上がり、右半分に寝転がった。ドイツは咎めず、イタリアの脱いだシャツを畳み、スーツを綺麗にハンガーに掛けブラシもかけた。
 自らもタンクトップ一枚と下着姿になり、ベッドの左半分に入る。
 ドイツは横になると、何故イタリアがこんなにも一緒に寝たがるのか、それについて考えた。そこで、とある一つの考えが浮かぶ。
 無防備になる寝所で、緊急時、守ってもらおうという防衛本能が働いてのことなのだ。何もおかしなことではない。急に納得がいった。
 そして自分もイタリアを守ってやろうと思っているのだから、自然とそういう雰囲気を出してしまっているのかもしれない。手の届くところにいたほうが都合もいい。
 キスをしたがる事については、ぴったりくる理由が探せなかったが、きっとそれに似たイタリアの弱さからくる……何かなのだろう。
「もっとこっちへ来い」
 いつもより少し距離とっているイタリアに呼びかけた。じりじりと近寄ってきたイタリアは、ドイツの鎖骨のあたりに、うつ伏せに顔を擦り付けた。
 熱い頬と、ドイツの肩は同じくらいの体温だった。
「重い?」
「いや……平気だ」
「おまえの体って、触ってるとどうしてこんなに落ち着くんだろ」
 ドイツは、そっとイタリアの背を抱いた。
「俺が、おまえを守りたいと思っているからだろう」
 撫でる手は背からうなじへ伝い、後頭部まで上がった。イタリアは静かで反応がないが、背は呼吸とともに上下する。こんなふうに触れることができるのもすべてフランスのおかげだ。
 ドイツはうつ伏せなのが苦しそうに思え、横向きにさせようとしたが、イタリアの体は動かなかった。しかしイタリアは急に勢いよく顔を上げ、切羽詰まったような声で言った。
「ドイツ、キスしたい……」
「なんだいきなり」
 イタリアの眼は潤んでいる。また先ほどのように泣き出すのではと、ドイツはすぐにイタリアの頭頂部に口付けた。寝かしつけるように頭を撫でる。
「もう泣くな」
「ドイツ、今度からキスしても怒らない?」
「今までも、怒ってなどいないが」
「だってこの間はさ」
「そうだ……あの時も泣いていたな」
 イタリアは肘をついて体を起こした。ドイツの顔を見つめ、やがて何かに引き寄せられるように、顔を近づけていく。柔らかい唇が、唇に触れた。
「おい……」
 ドイツは驚き、反射的に口を拭ってしまった。イタリアはそれを見てショックだったのか、口角を下げ、いよいよ涙がこぼれる寸前だった。
「背中以外ならいいっていったのに」
「確かにそう言ったが……、こういうのは……。おまえ、もしかして」
 俺の事を男として好きなのではないか、そう尋ねそうになり、ドイツはそんな自分に驚いていた。いつか大恥をかいたヴァレンティーノのこともあるし、迂闊なことは言えない。自意識過剰もよいところだった。けれど唇にキスをするのは、やはり友人として異常な気がする。
 イタリアは何かをねだる時ような、ひどく甘えた声で言った。
「友達はさ、口にキスしちゃだめなのかな……」
「普通はそういう気持ちにならんものだろう。友達なんだからな」
「嫌だった?」
「嫌……ではない。驚いただけだ」
「ねえ、じゃあドイツからもしてほしいな」
「俺は、別にキスがしたいと感じた事は無いが……。ただお前がしたいと言うなら、断るほどのことでもない」
「じゃあ俺はしてもいいの?」
「時と場所をわきまえるんならな」
「やったー!」
 寂しい思いをさせてしまったと自覚がある分、ドイツはある程度のことなら許容しようと思った。イタリアは相当嬉しかったらしく、さっそく唇をついばんだ。
「回数は?」
「まあ……、とくに上限はない」
 イタリアがあまりに夢中になっているので、ドイツは愛犬に顔を舐められているときのことを思い出していた。同じ感覚で、イタリアの背を軽くさすってやる。
 イタリアの呼吸は次第に浅く、速まっていき、最後には体ごとよじ上ってきた。合わさった胸から鼓動がーー驚くほど速いイタリアの鼓動が伝わってきて、ドイツはそれにつられた。
 もし、このままイタリアがキスをやめなかったら、どうなってしまうのだろう。気持ちが良かったし、キスをしてくるイタリアは可愛い。回数の上限はないと言ってしまったばかりだ。イタリアからのキスは……、好きだった。一緒に寝るのは嫌じゃない。抱き合うのも触られるのも、好きなほうだった。どこにも止める理由がなかった。


end

2010.12.28