胸に抱くと、太陽の匂い

「記憶喪失……?」
「ええ、申し訳ありません。とにかく今週末にでも、なんとか、こっちに来ていただくことはできませんか? 私がお送りしてもいいのですが、なにかと不安で」
「どういうことなんだ」
「なんというか……、私が悪かったんです」
 イタリアが日本の所に遊びに行って数日経った早朝、日本から切羽詰まった声で電話があり、ドイツはすぐに荷物をまとめた。早めに出勤して週末までの仕事にめどをつけ、その夜には飛行機に飛び乗った。
 事の顛末はこうだ。
 イタリアが日本を訪れて三日目の夜、日本は夕食に必要なソースを切らしてしまい、近所のスーパーまで買いに走った。その間イタリアに留守番を頼み、そこへイギリスが尋ねて来た。  日本は、イギリスと約束していたことをすっかり忘れてしまっていたのだという。酒の席での口約束だったので、その時初めて思い出したくらいだったそうだ。
 それを隠しながら、全く気にしていない様子のイタリアと、ぶすくれているイギリスの機嫌を取りながら、三人で肉じゃがとハンバーグを食べた。イタリアがおみやげに持って来ていた赤ワインを開け振る舞うと、イギリスは悪酔いし、意味不明なことを叫びながら、持参した赤バラの花束を畳に叩き付け、それを注意したイタリアとケンカになり、逃げたイタリアを、縁側から庭に突き飛ばしたというのだ。
 イタリアが昏睡していたのは五分にも満たなかったらしいが、眼を覚ましたイタリアは、心底イギリスに怯えていたそうだ。イギリスは騒動のことを何も覚えていなかった為、日本はなんとか埋め合わせの約束をして、予定通り帰した。とにかく、イギリスがいないほうがイタリアが安心できると考えたらしい。
「ドイツさん!」
 自宅の玄関でうろうろしていた日本のもとへ、ずいぶん急いだ様子のドイツが到着した。前髪も、シャツの襟も乱れている。日本はめずらしく喜びを満面に出し駆け寄って来た。ドイツを拝むように胸の前で両手を合わせている。
「久しぶりだな」
身を屈め簡単に挨拶の抱擁をすると、すぐに靴を脱いで、廊下へ上がった。
「本当に、ご無理を言ってしまって」
「いいんだ。俺も本当はイタリアに付き合う予定だったが、ダメになってしまったんでな。こうして来れて良かった」
「ドイツさん……」
「それで、病院には連れて行ったのか?」
「ええ一応……。外傷は頭のたんこぶと、手の平の擦り傷だけです。記憶喪失のことについては、おそらく一時的なものだそうで、日常生活に問題はなく、徐々に思い出しているみたいです。ゆっくり休めば回復してくるだろうといわれました。今はところどろこ不鮮明です。変なところで記憶が止まっているものもあって……」
「ふむ、日本のことはどうだ?」
「最初は誰?って感じでしたけど、もうお友達です。でも以前の様子と少し違いますね……」
「俺のことは?」
「……訊いてはみましたが」
「わっ」
 居間の襖を開けた途端、イタリアが廊下に出ようとしたのか、いきなり胸にぶつかった。一見普段と変わらない様子だったのでドイツはホッとする。
「イタリア」
 いつものようにハグとキスをすると、自然だった。体が覚えているのだろう。
「えっと……こんばんはー。俺イタリアだよ」
 イタリアは、ドイツの顔を見て眼をしばたたかせたあと、紹介してと日本に視線を送っていた。
「あっ、イタリアくん。こちらドイツさんです。ほらムキムキでしょう!お一人で帰るのは何かと不安でしょうから、迎えに来てもらったんですよ!!良かったです!」
「そっかーよろしくね。あは、頭が上にぶつかりそう」
 笑ったイタリアは、以前と変わらない。しかしドイツは、自分のことも忘れているのだと思うと少し残念だった。
「ドイツさん、夕食はどうなさいます?」
「簡単に済ませてきたので、できればビールを頼む。あればジョッキで。別に冷えてなくていいぞ」
「湯はどうしますか?」
「明日の朝にいいか?」
「ええ、わかりました、では6時に準備します」
「ありがとう」
「息ぴったりだねー」
 イタリアは他人事のように笑ってそう言った。

***

「にほんちさー……、いっぱい部屋あるのに、なんで俺と、ドイツ?一緒の部屋なの?」
 畳の上に二つ並べられた布団を見下ろし、イタリアが至極真面目な顔でそう言った。日本とドイツは顔を見合わせた。今までそれがあたりまえだったから、疑問にも思わなかった。 よくよく考えれば、二人とも成人男性である。
「い、イタリアくん。いいじゃないですかー! 何か問題でも?」
「問題っていうかさ、なんでわざわざ」
「イタリア、布団は離れているだろう。寝入りばなに昔の話でもしてやろうと思っただけだ。そうすれば、いろいろ欠けているところが戻ってくるかもしれないだろう」
「そうだけど」
 イタリアはどうも気乗りしないようすだった。
「もういいぞ日本、任せてくれ、おやすみ。六時に起きよう」
「わかりました。何かあったら言ってくださいね」
 日本はそう言って、障子戸を締めようと廊下に出て膝をついた。
「あーっ、待って待ってにほん。にほんもここで寝ようよー!」
「えっ、いえ私は朝食の準備もあるので、お二人より早く起きますから。それにぽちくんの散歩もありますし。あと厠にも数回起きます。自室のほうが都合がいいのです」
「でもでもー」
「なんだ。俺と二人では不満か、イタリア」
 ドイツが睨むと、イタリアはぱっと日本の袖を放した。それからいつものようにイタリアの首根っこを強く引っ張って部屋の中に戻した。諦めたようだったが、一言、「ドイツってなんかこわい」と言った。
 寝支度を整え二人揃って寝床に入ると、妙に空気が張りつめていた。ドイツは、自分が緊張しているのか、それともイタリアなのか、よくわからなかった。ただイタリアといて、こんな気まずさを感じるのは初めてに近い。ドイツは気を紛らわそうと口を開いた。
「イタリア、俺たちの関係はわかっているか?」
「俺と条約組んで……にほんとはそのあと、三人で同盟したんだよね。だから今でも仲良しー」
「そうだ。俺とオーストリアのことは?」
「昔一緒に住んでて、仲が良かったのは知ってるよ。知ってるけど……、どんな感じで生活してたかとかが、わかんなくって。にほんにだいたい教えてもらったから、表面のことはわかるんだけど……」
「なんでも訊いてくれ」
「俺たちって、隣国じゃないでしょ? なんでドイツが迎えに来てくれたのかなって」
「オーストリアやフランスが迎えにくると思うのか?」
「うーん……よくわからないけど」
 そう問うと、イタリアは唸った。
「あ、そっか。にほんは一番にドイツに電話してたみたいだから、俺とドイツって、よく連絡をとってたんだね。そうでしょー?」
 よく連絡を……というレベルではなかった。
 メールはほとんど毎日来るし、三日にいっぺんは用事がなくとも電話がかかってくる。週末にはほとんどドイツの家に入り浸っている。そしてだいたい同じベッドで眠っている。
「日本が、この部屋に俺の布団を敷いたのは、何も不思議な事ではない」
「どうして?」
「ここに泊まるときは、いつもそうしていたからだ」
「ふーん……」
「それか、一つの布団で寝ていた」
「……布団が洗濯中だった?」
「おまえがそうしたいと言ったからだ」
「ふーん……。あ、ごめん。おまえっていうのちょっと嫌だからさ、名前で呼んでよ」
「わかった」
 ドイツは、何を話そうか考えた。
 自分とイタリアの思い出ばかり話すのは、懐古的で変な気持ちになる。どうも気が乗らなかった。今は、イタリアとの微妙な距離を縮めることのほうが優先かもしれない。
「おまえは」
 喋りだしに、つい口癖が出てしまう。
「ああ、すまん」
「ん、やっぱりそれでもいーよ。そう呼んでたんだね」
「おまえは……、暖かい日溜まりのようで、俺をいつも笑顔で迎えてくれる。胸に抱くと、太陽の匂いがして、陽射しの強いアドリア海と、光輝く水面が思い浮かぶ。俺は……、おまえが居ると、自分の足りない何かが、埋まるような気がするんだ」
「それ口説き文句?」
 途端に、イタリアの声が笑った。
 うつ伏せになって肘をつき、ドイツのほうを向いている。眼を細め、眉尻が下がり、信じられないほど柔らかく口角が上がる。そして、少し首を傾げる。ドイツは、その笑顔があまりにも鮮烈であったため、見てはいけないものを見たような気がして、天井へと顔をそらした。
「ロマンチックだね。見た目とギャップがあって、ぐっとくるよ。俺が女の子だったら、すぐ抱いてっていうかも……。今みたいな事、言われたいもん。『胸に抱くと、太陽の匂いが……』」
「やめろ」
 目の前で反芻されることに耐えきれず、ドイツは厳しい声で遮った。イタリアはしばらくきょとんとして、それから、俄然ドイツに興味が湧いたようだった。
「えっ、なんで照れてるのー?」
「別に……、おい覗き込むな」
 イタリアが布団を抜け出し顔を覗き込んできたので、ドイツは背を向けた。静かになったので、自分の布団に戻ったのかと思いきや、寝返りを打つと、肘で思い切りイタリアの肩を打ってしまった。
「痛ぁ!」
「何やってるんだおまえは!」
「だって匂いが……」
 イタリアは鎖骨の辺りを抑えながら、座り込んだ。とにかく股間が丸見えで、ドイツはなんとなく眼のやり場に困った。問答無用で布団のほうへ押し返す。
「匂いがなんだ」
「いい匂いするね。トワレ何使ってるの?」
「別に……、普通のあれだ、おまえがくれたやつだ」
「えっ?」
 イタリアは眼を丸くして、そして、何か思い当たったようで頷き、ぼんやりとした様子で布団へ這って行った。
「そーなんだ、だから俺が好きな匂いなんだね。それにしても……そっか。俺がプレゼントしたんだー……」
「一昨年くらいにな」
「男友達に、香水プレゼントするってさー……俺、ないよねぇ」
 横になったイタリアはクスクスとと笑っていた。ドイツは急に恥ずかしくなる。バカにされているような気が、少しだけした。イタリアの性格からして、そんなことはありえないと、わかってはいたが……。香水は気に入ったから使い続けているだけで、イタリアにプレゼントされたから、という理由で使っているつもりはなかった。
「俺たちって、そういう関係なのかな……? だから一緒に寝てたの?」
「俺は疎くて……。おまえがよく熟知しているから、気をまわしてくれただけだ」
 それ以降イタリアは静かになった。ドイツは沈黙が怖くなり、さっさと寝てしまおうと決めた。
「ドイツ、俺たちって……」
「寝るぞ」
 容赦なく部屋の灯りを消した。障子から、月明かりがやんわりと入って来ているので、真っ暗ではない。物の輪郭がわかる程度には明るかった。
「ドイツは俺のこと好きだったの?」
 数十分前なら好きだと言えただろう。だがドイツは、香水を笑われた事が心に引っかかって、素直になれなかった。
「ただのくされ縁というやつだ」
「好きじゃない?」
「好きじゃない。おまえと関わっていると、面倒ばかりだ」
 そう返したが、さっきあんな告白をしてしまった手前、もう何を言っても遅い。だがこれ以上からかわれるのはごめんだし、イタリアを調子づかせたくなかった。
「その香水って、本当に俺がプレゼントしたの?」
 ドイツは寝た振りをして一度無視したが、気になってしまい、しばらくして口を開いた。
「……そう思いたくないなら」
「ううん。それね、俺が昔使ってて……。すっごく長い間使ってた気がする。好みに調合してもらったやつだよ……。本当に気に入ってた。自分かと思うくらいに。ドイツにあげたんだね」
「くれた時は、そんな話していなかったぞ。俺と会う前か?」
「どうだろ、よくわかんないけどさ……」
 そう言ったあと、イタリアは感嘆のような吐息をもらした。
「俺って、ドイツのこと好きなんだね……」
 ドイツはなんと相槌を打っていいのかわからず、黙りこむ。
「さっき笑っちゃってごめん、ちょっと恥ずかしかったからさ」
 照れ笑いだったのだと気づいて、ドイツは安堵した。イタリアはやはり、イタリアなのだ。
「ん、いや……そんなことはいいんだ。早くもとに戻るといいな」
「うん、ねぇやっぱり一緒に寝よ」
 ドイツは考えていた。
 自分が会った限り、イタリアからこの香水の匂いがしたことはなかった。
 出会う前に長く使っていたという。それならば……、フランスやオーストリア、ハンガリー、スペインあたりには、気づかれているのではないかと思った。フランスのにやにや笑いを思い出して思わず眉間にしわを寄せ、唸った。
「ヴェ、ダメ?」
 イタリアが枕を持って移動中だったようで、すぐ側でそば殻の音がする。
「なんでもない。ほら入れ」
「わーい」
 布団の縁をめくって誘ってやる。イタリアは隣に収まると自然と腕を組んで来て、イタリアも自分の行動に驚いたのか、すぐに手を離した。
「わぁ!あれ…? ごめん……」
「いいんだぞ、イタリア……」
「やっぱり俺たちって」
「なあ、おまえは……、どうして、この香水を俺にくれたんだ?」
「えっとー……、俺のドイツ、っていう感じかなぁ」




2011.07.30