迷う心

「爪が長いな」
 そう言われたので、イタリアはベッドついていた自分の手を見下ろした。確かに伸びすぎている。どこかに引っ掛けてしまいそうだった。
「ほんとだ。爪切り貸してよー」
 イタリアは立ち上がり、自分でドイツの机周りを探した。いつもなら机のペン立てにカッター等と刺さっているのだが見当たらない。
「すまん、ここにあった」
 声に振り返ると、ドイツはベッド脇のチェストに手を伸ばしていた。その手の中には銀色に光る爪切りが見える。
「ありがと」
 ベッドに戻って受け取ろうとしたが、何故かドイツは一瞬躊躇った。イタリアはその様子を見て首を傾げる。
「なに?」
「俺が切ってやろうか」
 イタリアは驚いて、目を瞬かせた。
「ヴェ……」
「ほら、手を出せ」
「ええー? いいよぉ、おれ自分でやるよ。貸してー」
 ドイツ+刃物はなんとなく、それだけで危険な香りがした。ドイツはたまに不意打ちで優しさを見せる。素直に従ってもいいのだが、どうも最近はドイツから何かされると、嬉しい、より、恥ずかしい、が勝ってしまう。
 それに、嫌がっているドイツに無理矢理くっついているのが楽しいのであって、いざ受け入れる姿勢をとられると、叱られる前触れなのではないか勘ぐりたくなる。
「いいだろう。こういうのも、たまには」
 眉間にしわを寄せ粘ったドイツと、しばらく見つめ合った。イタリアは、ベッドの端に腰掛けたドイツの前に立ち、おそるおそる指先を差し出す。じっとしていたが、ドイツの爪切りは予想外に危なげではらはらした。
「自分でやるようにはいかんものだな」
「向きが違うからじゃない?」
 イタリアがそう助言すると、ドイツは顔を上げ目を見開いた。
「それだ」
 ドイツはベッドの奥へ少しずれた。
「ここへ座れ」
 続けて真面目な表情でそう言われ、イタリアは戸惑う。
 示された場所はドイツの広げた股の真ん中であり、そこへ座って爪を切られるという事は、きっとドイツが後ろから覆いかぶさって手を取り、己の爪を切るようにイタリアの爪を切るということだ。
 温かいだろうな、という想像はさておいて、そもそも何故そこまでしてドイツは爪を切ると言うのか。怪我などで利き手が使えない状態であるならまだしも。普段ならたとえ懸命にねだっても、自分でやれ、と一蹴される部類の事だった。
「やりにくいでしょー? ……俺自分でやるよ」
 ドイツはその言葉を無視し、ぐいと腕を掴んだ。イタリアは半ば強引に座らされる。
「おとなしくしているんだぞ」
 そう告げたあと、ドイツはイタリアの手を胸の前に握り、黙々と爪を切り始めた。今度は上手くいっている。しっかりと手を固定しようと、強く握ってくるドイツの手のひらが熱かった。気持ちがいい。背中に触れる胸板もじんわり温かい。
 イタリアは、詰めていた息をようやく吐きだした。何故か緊張していたようだ。今日はドイツの機嫌がたまたま良くて、サービスする気になったのだろうと考えることにする。運が良かっただけだ、と思考を切り替えると気持ちが軽くなった。安心して二人の手を眺める。
「俺、こんなことされるの、ハンガリーさん以来だなぁ……」
 ドイツの顔が見たい。そう思ってイタリアが顔を上げると、あまりにも至近距離にドイツの喉仏が見えた。そこから繋がる顎のラインと耳に見とれてしまう。首筋にゆっくり頭をもたれてみれば、とくに抵抗はない。
 ドイツは真剣に爪を切っている。時には一本一本の指を、優しく包むように握る。考えてみれば、自分から手をつなぐことはあっても、ドイツからはされたことがなかった。さっきからやけに体が火照り動悸が激しいのは、その為なのだろう。少し顔を横に倒して、ドイツの首に鼻先を寄せると、肌の匂いがなんだか懐かしい。匂いを吸い込むほどに、ドイツとの距離が縮まる気がする。ドイツが自分の中に入ってくるような、それによって何かが溶かされてしまうような気がした。イタリアは心地良さにとろとろと眠くなってきて、時折目を閉じ、指先の感触を追った。
 ドイツはイタリアの腿にタオルを敷き、丁寧にヤスリまでかけてくれた。終わると、具合を確認するように爪の先を撫で、自慢げに問う。
「どうだ、イタリア」
「嬉しいよ、とっても」
 答えに満足したのか、ドイツは少しだけ口の端を上げた。それを目にしたとき、イタリアの心は先ほど以上に沸き立つ。ドイツの笑顔は貴重だ。三匹の愛犬と遊んでいるとき以外は特に。
「うむ、では……もういいぞ」
 もういい、は体の前から退けという意味だ。
「ヴェ〜、でもさ」
 イタリアは梃子でも動かないと決めていた。すると念を押すようにドイツが言う。
「終わったからな」
「キスしていい? お礼に」
「いらん。人の爪を切ってみたくなっただけだ」
「ほんとに〜? あやしいなぁ」
 イタリアはそのままドイツの胴にしがみついて、胸板に頭を擦り付けた。
「俺の手、触りたかった? 理由なんかなくったって、ドイツならいくらでも触って良いんだよ」
 自信過剰な発言をしたあとイタリアは、ああまたか、と思う。また……こんな風に言ってしまう。茶化してしまう。もう少し耐えられたら、いいムードになるのかもしれないと思うのに、いつも堪えきれなくて、ドイツを怒らせるようなことをわざと言ってしまう。五分でも黙っていられたらいいのに。
 ドイツからの怒声を待っていたが、なかなか返事がなかった。それどころか、体を離す様子もない。きっと押しのけられてしまうだろうと予想し、イタリアは先に腕の力を緩めていた。ドキドキと、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いて、耳を当てているはずのドイツの鼓動は、よく聴こえなかった。
 思い切って顔を上げると、ドイツは耳まで赤くなっていて、険しい表情だった。視線に気づいたのかさっと顔を背ける。イタリアは焦燥に駆られて口を開いた。
「ごめんね」
 からかっているつもりはなくても、ドイツがそう感じたら同じ事だ。せっかくの親切に、自分はなんてことを言ってしまったのかと思う。もうドイツは二度と爪切りなんてしてくれないかもしれない。
「いや……、ほら退け、もう寝るぞ」
 ドイツはため息交じりに呟くと、爪切りをゴミ箱の上で払い、サイドテーブルの上に置いた。
 イタリアは最近、自分のことがよくわからない。
 前からドイツに好かれたかったし、ずっとこの距離のまま側にいたいと思っていた。けれどこんなにも、ドイツのすべてを意識していなかった。自分の行動を見て、ドイツがどんな表情をするのか。呆れているのか、怒っているのか……それとも、微笑んでいるのか。そんな小さなことがいちいち気になって仕方がない。
 ドイツは先にベッドに上がって横になってしまった。背中を向けられ、もう話かけてくるなと言われた気がして、イタリアはシャツの裾をぎゅっと握った。
「イタリア」
 ドイツが首だけ振り返って視線を寄越した。目が合って、イタリアはますますわからなる。
「早く入れ」
 促されてベッドに上がる。
「……今度から、勝手にするからな」
「ん?」
「勝手にする……」
「手に触る事?」
 ドイツは否定しなかった。イタリアは息を飲む。
「ねえ俺」
 色々と頭に浮かんだものの、唇を噛み、なんとか喋るのを堪えていた。だが結局、黙り続ける事は出来なかった。
「今までも好きだったけど、ドイツのこと、すっごく好きかもしれないよ」


2011.01.28