Losing myself 前編


ドイツは朝、目が覚めるとすぐにカーテンを開ける。
どしゃぶりでもなければ鎧戸も開けて、必ず部屋の換気をする。立ったまま軽く肩のストレッチをし、すぐに着替えを持って部屋を出て、シャワーを浴びに階段を下りる。休日であろうと変わらない。
 イタリアは知っていた。
 まだドイツのベッドへ勝手に潜り込んでいた頃はそうだった。
 ぐずぐずと起きないイタリアを置いて、さっさと階下に行ってしまったものだが、今は違う。
 ドイツはカーテンと窓を開け、新鮮な空気を部屋に取り込んだ後、伸びをして、必ずベッドに戻ってくる。イタリアが起きるまで、何かイタリアに向けて喋りかけている。それを聞き逃したくなくて、イタリアはいつのまにか身を起こしている。
 ドイツが自分のために行動を変えてくれるというのは、よくあることだが、イタリアはこのことを、特別に感じていた。
 初めてドイツから部屋へ誘ってくれた翌日、起きるとドイツは横にいなかった。「起きたときにドイツがいないと寂しい」と明るく主張すると、その次からドイツはベッドへ戻ってきてくれるようになった。
 ソファで隣に座ったドイツが、意味もなく唐突に手を重ねてきたりする。
 ハグしてと頼んでもいないのに抱きしめてきたり、頭を撫でてくる。
 そんな時のイタリアは、まるで朝焼けを見ている時のように視界がぼんやり明るくなって胸が高鳴り、いてもたってもいられず、意味もなく息を吐き出す。
きっとこの世で、自分を一番好いていてくれるのはドイツなのだろうと確信が持て、ドイツのためならばなんでも出来るような気になる。またドイツのために、もう少しちゃんとした自分でありたいと素直に思えた。
ほんの数秒でも数分でも、そういった瞬間を味わせてくれるのはドイツだけだった。
 しかし優しいドイツを見ていると、イタリアは時折不安を感じる事もあった。今が最高に親密だとしたら、ドイツが関係を少しでも面倒だと思う時、もう二度とあの瞬間が来る事はないような気がしたのだ。
 イタリアがはっきりと不安の正体を見たのは、ある晩の夢だった。
 詳細はすぐに忘れてしまったが、ドイツに会えなくなってしまう夢を見た。旅に出ると言って、二度と戻らなかった。今までぼんやりと置いてあった気持ちが急速に固まった。ドイツが優しくしてくるのは、別れの前兆だったらどうしようかと、心のどこかでずっとそう思っていたのだ。深夜にうなされ目が覚めた時、目元はぐっしょりと塗れていて、全身に嫌な脂汗をかいていた。
簡単にシャワーを浴びシャツを引っ掛けて、まだ夜も開けないうちに家を飛び出した。いつかもこんな風に夜道を歩いた事を思い出しながら、イタリアは急ぎスイスを渡った。明け方急に冷え込んできたが、薄着でも気にならないほど焦っていた。
「……イタリアか? どうしたんだこんな早朝に」
「いいから開けてよー!」
ドイツの家に着き玄関のドアが引かれると、その向こうには困惑の二文字を顔に貼付けたドイツが、下着姿に適当なシャツを羽織って現れた。イタリアの声に慌てて降りて来たようで、まだ目がよくあいていない。外気の冷たさに鋭く目を細めていて、いつもの無愛想が一割増だったが、前髪は下りていて、耳の後ろにぴょんとはねた寝癖があったので、相殺されていた。
「おはよう。言っておくが今は朝の5時だぞ」
「ねえ、ドイツ最近なんで俺に優しいの?」
 ドイツは眉を顰め、イタリアを見返した。
「なっ……なんだ。優しくした覚えなど……」
「だって急に手をぎゅーってしてきたりするよ」
 思い当たる節があるようで、大きな手で口を覆って視線をそらした。
「俺が言わないと、ずっと握ってるじゃん……!! あと撫でたりするし」
 ドイツはむせている。
「おっ……お前は、朝っぱらから何の話をしにきたんだ! 落ち着いて、中に入れ。寒いだろう。髪の毛が湿っているが森を通って来たのか?」
「だめだよ。はぐらかさないで今答えてよドイツ……」
「なんだか知らんが……。おまえの気のせいだろう」
「じゃあドイツは手を握ってない……? ってこと」
「あれだ、当たっただけとかな」
「ハグは?? 最近良く頭撫でてくれるのは……?」
「知らん……、いつもと同じだ。ほら早く中にはいれ。寒いだろう」
 ドイツはイタリアの背を抱き、玄関の中に押し入れようとした。イタリアはそれに抵抗する。
「ドイツ、全然前と違うよ。いっぱい触ってるよー! このあいだの夜は太もも」
「イタリア、玄関でする話じゃないだろう!」
 ドイツは顔を真っ赤にして怒鳴っていた。イタリアには予想外の反応であり、それに見入ってしまい、息を飲んだ。慌てて首をぶんぶん振り、玄関に押し込まれそうになるところを逃げ出した。庭で一定の距離を確保すると、ドイツに向き直る。
「イタリア……!」
「ドイツ……、俺の部屋にくるか? って言ったじゃん、あれは」
「お……おまえが毎回ベッドに入ってくるから、面倒で先に言っただけだ」
「でもドイツ、俺を起こしてくれるようになったから…」
「それは……!! そのほうがいちいち二階に上がらずにすむからだ!」
「そっか……。でもさ、手は握ってるよね?」
「同じ事を言わせるな! に、握っていない……!」
 イタリアには、ドイツが何故否定するのか理解できなかった。確かに今まで口にしたことはなかったが、手は握っていた。絶対に握っていた。自分の夢ではないはずだ。
 ドイツは自分から手を握った事を認めたくないのだろうか。他に人が居て隠したいのならまだわかるが、二人で話しているのにどうしてだろう?
 口を尖らせてドイツを見ていると、ドイツが玄関から踏み出し、三段の平たい階段を降り、庭に出てくる。ドイツは威嚇するように大きく腕組みをしたが、室内履きのままで下着姿、太ももがむき出しで寝癖もついているため、アンバランスだった。
「それで……用はそれだけなのか?」
イタリアは納得がいかず、そっぽを向いた。すると斜め後ろに、心配そうに様子を見ているベルリッツが座っていた。もう一度ドイツのほうを向く。
「優しくしてない?」
「ああ」
 自分が感じていたあの心地よい瞬間は、きっとドイツも感じているのだろうと思っていた。
気持ちが通じ合うなんて本や映画では良くあるけれど、現実にこんな瞬間があるのだと、幸せだったのは、自分だけだったのか。イタリアは残念で、だがドイツのこの様子では、今朝みた夢は現実にはならないだろうと少しほっとしていた。
けれど、ドイツから手を握ったり、抱きしめてくれた事をなかったことにされて、イタリアは傷ついた。上手くいかないものだ。
「イタリア、……何故いきなりこんな話をしにきたんだ」
「ううん、なんでもないんだけど……」
 イタリアは気が抜けると、急に眠くなってしまった。悪夢のためか、昨晩はあまり睡眠を取った気がしていない。加えてここまで必死で走って来たせいか、全身が疲労している。
 ため息をつきながら、ドイツの側へ歩いた。
「ドイツ……、隠したいようなことなら、しないでよー……。俺、すっごいドキドキして嬉しかったのにさ……」
 頭がぼんやりして、まぶたが自動的に落ちてくる。
「イタリア……」
「ねえ、眠いから少し寝ていっていい?」
「あ、ああ……」
「こんな時間に来ちゃってごめんね。朝食、俺が作るから起こしてね」
ドイツがかすかに頷いたように見えた。イタリアは早く横になり、昨晩の夢や、ドイツがたった今否定した事を忘れてしまいたかった。
 客室のベッドにもぐって数時間後のイタリアは、キッチンに立ち、手際良く食材を確認して、野菜を茹で始めた。コーヒー、パン、ジャガイモとヴルスト、トマトと白アスパラガス。ドイツの家の食卓としては、いつもと同じようなメニューであったが、イタリアが数分のうちにフライパンで作って野菜に振りかけた黄金色の酸味の利いたタレは、魔法のように素材の味を引き立てていた。



***

「じゃーねー!」
大きく手を振るイタリアを見送り、やがてその姿が建物の影に入り見えなくなると、ようやくドイツとプロイセンは家の中に引っ込んだ。
「なあ、ところでイタリアちゃんなんの用だったんだ?」
「知らん。いろいろ言っていたが、まあいつものようなことだ」
「ふーん。まあいーか。今日は朝からツイてるぜー!!」
 身支度を整える為に、ドイツは部屋へ戻った。イタリアが仕事があると言い帰ったように、ドイツも今日は出勤である。鞄に書類や眼鏡をしまいながら、ふと今朝の玄関での情景が思い浮かび、思い切り拳で机を殴った。
「…………っ!」
 痛いのは当たり前で、ドイツは歯を食いしばる。痛みが和らぐと、その後何度かため息をつき鞄を机に置く。部屋の中をうろうろと何周かして、今度は立ったまま顔を覆って俯いた。
「ああ……」
 今朝のことは一体なんだったのだろう。
 自分から何度も手を握ったしハグもした。だが、まさか朝っぱらから突然尋ねて来て、直接指摘されるとは想像もしなかった。羞恥から、一度「していない」と口にしてしまうと、ムキになってすべてを否定してしまった。イタリアが不思議そうな顔をしていたのもわかる。優しくしたのは、甘やかしたかったからだ。
自分の中に、イタリアに良い印象を植え付けたいという欲が現れたのは、いつからだったろう。
 気に入ってもらいたい、というのが一番当てはまるかもしれない。
 付き合いも長いのに、今更おかしな話だった。
「ああもう……」
 理由がどうあれ、イタリアがごく自然に客室で寝て行ったことが、ドイツにはただショックだった。
イタリアは何か大切なことを確かめに来たのだろう。ずいぶん急いで来た様子だった。見間違いでなければ、大泣きした後のように目が腫れていた。
 朝食後には、イタリアはそう言った感情をすでに落ち着けたようだったが、納得しているはずがない。さっきはプロイセンもいたから機会を失ってしまったが、謝らなければならない。
「……ああ!! くそ!」
こちらから手も握ったしハグもした、そう改めて報告するのかと思うと、顔が燃えるように熱くなる。しかしこれを肯定せずに、謝る事などできないのだ。
イタリアのように素直でいることは、なんて難しいことなのだろうと、ドイツは痛感していた。
2011.08.22