「おい、走ると転ぶぞ」
「ねー、ほら見てあれが外のお風呂。すげー綺麗だよ! 寒いけど……」
 二重のガラス戸を開け、今にも外に飛び出さんとしているイタリアに、ドイツは声をかける。
 大浴場は、深夜であるためなのか他に人がいなかった。イタリアの声がよく響く。
 浴槽部分は、浴場内の三分の一ほどだ。角に積み上げられた岩の間からは、絶え間なく湯が流れ落ちている。
「俺は体を洗うから……」
 待っていろ、と言うのもおかしな気がして、ドイツはそこで口籠った。イタリアはガラス戸の前から戻ってきて、室内の湯船に落ち着く。それを見てドイツは椅子に座り頭を洗い始めたが、ゆうに二メートルは離れているだろう湯船から、イタリアの視線が感じられ気になった。
 眼を合わせるとなにか気まずいことが起きるような気がしたので、ドイツは無視して頭からシャワーをかぶった。シャワーを止め、体を洗い出すと、途中でイタリアが湯船から上がりペタペタと歩いてくる音がする。
 右隣に椅子を持ってきて腰掛け、にこ、と笑って言った。
「俺が背中洗ってあげるよ。日本とね、洗いっこしたんだー」
 ドイツは断る理由もなかったので、イタリアがやりやすいように体を左に向けた。
 やがて、イタリアが泡いっぱいのタオルで背中を擦り始め、たどたどしい様子に思わず口を開きかけたが、思い直して黙った。
 今日はあまりイタリアをかまってやらなかったと、ドイツは一日を振り返っていた。
 朝は準備でバタバタしていたし、スキー場ではほとんど別行動だった。夕食をとってアルコールが入ってからは会話の内容もろくに覚えていない。最後にはいつのまにか寝てしまった……。
 ドイツは昨晩のことも思い出していた。
 日本の家で、久々に一緒に眠れるのだとイタリアは騒ぎ良く喋った。何かしらの情事を期待しないわけでもなかったが、楽しそうに甘えてくるイタリアを宥め、落ち着かせているうちにイタリアが寝てしまったので、拍子抜けした。
 幸せそうな寝顔を見ていると、起こす気にはなれず、だがそのあとしてしまった行為についてドイツは恥じていた。
 体を流し、二人で外の露天風呂に向かう。
「気持ちがいいな」
「うんー」
 二人きりということで、イタリアが過度に接触してくるのではないかと危惧していたが、ずいぶんおとなしかった。隣に並び肩まで湯に浸かり、静かに眼を閉じている。
 安心してドイツは夜空を見上げた。
「あったかいね」
「……ああ」
 ふいに体の右側にイタリアがくっついてきた。ドイツは無言で少し距離をあけたが、イタリアはまたすぐに寄ってくる。
「あのな」
 離れてから、注意しようとドイツが口を開きかけたところで、イタリアの手が強く肩をつかんだ。眼を合わせると逸らせない。
「ねえ、もうずいぶん経つね……?」
 イタリアが体をこちらに向け、右手がすっと首に伸びてくる。キスをするのかと思ったが、首を見つめるだけだった。イタリアは筋を人差し指でなぞる。
「ドイツはなんで平気なの……俺」
 指先が下降し始めたので、咄嗟に掴んだ。
「平気だったわけではない……、ここしばらく忙しかったろう。俺もお前も」
 しばらくその手と格闘し、イタリアがおとなしく膝を抱えた頃には、ドイツの頭の中はやましい妄想でいっぱいになっていた。自らを戒めるようにイタリアを注意した。
「わかっているとは思うがな、公共の場だぞ」
「こんな時間に来る人いないよ」
「ばかもの」
「冗談だよー……」
 イタリアがそう言ったのでホッとし、だがもったいないようなことをした気になった。
 自分も求めているのだということを伝えたかったが、下手をするとイタリアが興奮し、抱きついてくる可能性がある。それを拒絶できる自信がなかったので、ドイツは悩んだ。
 一刻も早く部屋に戻り、熱い抱擁を交わし愛を伝えなければならないと思った。
 立ち上がると、つられてイタリアも顔を上げる。
「あれ? もういいの?」
「ああ……、酔いが回ったようだ」
 もうほとんどアルコールは抜けていたが、そう言い訳にして湯船を出た。イタリアもあとからついてきた。
 部屋から持ってきた浴衣の着用の仕方がわからないことに気付き、イタリアに訊いたが、日本にやってもらった、といって首をかしげる。その様子は可愛く、ドイツは何度キスしようかと迷った。
 洗面台の脇に運良く、着方を説明した写真付きのクリアファイルが置いてあり、ドイツはそれに従ってイタリアにも着せてやった。
 大浴場まで歩いてきた時は、まだ寝起きだったので意識が向かなかったが、浴衣を着たイタリアは美しかった。
 着せるとき、襟の間から覗いた肢体は艶やかで、思わず息を飲んだ。半纏も着せ、マッサージチェアを勧めるイタリアをそこから引きはがして、ドイツは部屋へ向かった。


「ドイツ、もしかしてさっき起きてた……?」
 先に部屋に入ったイタリアは、こちらに背を向けたままビクビクしながらそう言った。怒られることを予期しているような素振りだ。内鍵を閉め、まさに今イタリアの体を抱きしめようとしていたドイツの手は止まる。振り返ったイタリアは浮かない顔だ。
「いつのことだ」
「おまえが寝ちゃってすぐ」
「いや、気づいたのはお前が部屋に入ってきた時だ」
「そっかー!」
 真面目に返すと、イタリアは明らかな安堵の表情を見せた。
「よかった、ドイツさっきからなんか変なんだもん……!」
「酔って……酔っているからじゃないか」
 指摘されドイツは俯き唇を噛んだ。平静を装っていたがやはり伝わってしまうものなのか……。
 今の今まで、抱きしめてキスをして、どんないやらしいことをしてやろうかと思っていたのに、途端に恥ずかしくなってしまう。ドイツはイタリアの背を押しスリッパを脱がせ、和室に入れた。
「俺は……寝ぼけて何か言ったか?」
 イタリアがなぜ怯え、尋ねてきたのかを考える。変なことを言ってなければ良いが、とドイツも気が気ではなかった。
「あっ、ううん別に言ってないよ、大丈夫」
 イタリアは何かを隠している様子だった。気を使われているのかと思うと情けない。
「いいぞ、言っても……。そのほうがすっきりする。おまえも心に溜めておくのは嫌だろう」
「え、ほんと大丈夫だよ! 何か言ったとかじゃなくて、俺、お前の寝顔にキスしちゃったんだ……、それで起きてたのかなって」
 ドイツは言葉を詰まらせ赤面した。
「お……、起きていないぞ」
「うん……、よ、よかった〜」
「そうか……」
 しかし、寝顔にキスしただけで怯えはしないだろうと、ドイツは不思議に思った。しばらく眼を見ていると、イタリアのほうから逸らした。歯を磨こうと言い出し、さあ寝るぞというところで、イタリアは自分の布団に横になる。
 半纏は脱いだが浴衣は着たままだった。ドイツは驚きのあまり確認してしまった。
「イタリア、就寝の……」
「あーっ、そうだね」
 イタリアは戻ってきて軽く抱きつき、両頬にキスをして、また自分の布団へ戻って行った。ドイツはイタリアのよそよそしさに、ある考えが浮かび背筋が凍った。まさかイタリアは、昨晩自分がしてしまった行為を知っているのか。
 だが、風呂場では背中を洗ってくれたし、挑発的なボディタッチもあったのだ。浴衣を着せたときも嫌がる様子はなかった。幻滅したということはないだろう。第一イタリアは、知りながら黙っているようなことはしない。すぐ顔にでるので、今朝の会話でも探ったが、イタリアは完全に寝入っていたと判断がついた。ならばこの態度は一体……。
 ドイツは混乱していた。叱りもしていないのに別々に寝ようとするなど、今まで一度もなかった。二人の間には、一畳分の距離がある。
 壁のスイッチで天井の電気を消し、イタリアとの布団の間に長方形の灯りを移動させて、横になった。
「そうだ、言いそびれていたが……、布団をかけてくれて、ありがとうな」
「うん、俺じゃドイツ動かせないしー……一緒に寝るから俺の方なくてもいいかと思って」
「い……一緒に寝ないのか?」
 決定的に不自然な間があり、ドイツは身を起こした。
 このまま寝るのは体に悪い。
「イタリア、そっちへいってもいいか」
 答えを待たずにドイツは布団から抜け出た。避けたイタリアの左に枕を置き、そこに落ち着く。イタリアがすぐに頭を擦りつけてきたので安堵した。
 そして、できるだけ優しい声色を作って言った。
「隠し事があるのなら言ってみろ、怒らないから」
「ほんとうに怒らない?」
「ああ」
「起きてなかったんだよね……?」
 問いつめたいのを堪えていると、イタリアは布団が敷かれたあとのことをぽつぽつと話し始めた。
「……それで、俺すぐに風呂に行こうと思ってたんだけど……おまえの寝顔見てたら、なんか」
「なんだ?」
「可愛いから……俺……」
 その先は言われずともわかった。ドイツは息を止め、額に手をあて大きなため息を吐き出した。それを悪い方に受け取ったようで、イタリアはいくつか付け加えた。
「でも、おまえに触ったりしてないよ! キスはしたけど」
 ドイツは動悸が激しくなるのと共に、顔が熱くなるのを感じていた。灯りは暖色であるし弱いから、イタリアは気づかないかもしれないが、どうにも収まらない。
 ついでに昨晩の行為のことも思い出され、頭が沸騰しそうだった。
 心配なのかイタリアが顔を覗き込んでくる。ドイツは返す言葉が見つからず、恥ずかしさのあまり、しばらくイタリアと眼が合わせられなかった。
「……やっぱり怒った?」
「バカ……、まったく……」
 不安そうな声を聴き、すぐ左上にあったイタリアの首を引き寄せた。軽く口づけ、頭をがしがしと撫でる。
「なあ、おまえ浴衣は着たままで良いのか」
「あ、ドキドキしてて忘れてたー……、これって体が楽でいいよね」
 イタリアは手をついて上半身を起こし、座って帯を緩めようとした。ドイツはそれを見て起き上がり、イタリアの手を止めた。脱衣所でしっかりと着せてやったはずだが、浴衣は既にずいぶん着崩れしている。
 襟はほとんど帯のあたりまで開いていて、横に流した足は半分ほどしか布に覆われていなかった。
 イタリアが身じろぎする度、白い内腿が見え隠れする。ドイツの眼はそこへ釘付けになり、手は引き寄せられるように伸びていった。
「ドイツ?」
「いや、そのままでいい……」
 ドイツは、いつか日本が熱く語っていたチラリズムという言葉の意味を思い出す。
 湯上がりのせいか、肌はしっとりと手のひらに馴染んだ。優しく撫でると、イタリアは俯き体を震わせる。
 手が中心に近づくにつれ、それはひどくなる。やがて思い立ったように身を乗り出し寄ってきて、ドイツの首に腕をまわした。



2010.11.28