Ich liebe dich


「イタリア」
「何?」
「聴いてなかったのか、疲れているし、明日早いんだ。もう寝たい」
「ヴェ……そっかー……。ごめんごめん」
「それで用はなんだ。手短に話せよ」
「用? 別にないよー」
 すでに受話器をとってから、15分は経っていた。
 ドイツは相槌を打ちながら、片手間に本を並べ変えたり、ベッドのシーツを直したりしていた。
 イタリアは兄の事や、カーテンを変えた事、近所に住み着いた猫の様子までぼんやりと話していた。とりとめのない話を聞くのは嫌いではなかったが、何しろ長い。放っておけば延々としゃべっている。時間があるときはいくらでも聴けたが、そうでないときは別だ。
 ここ数日慌ただしく出張や会議が重なり、ドイツはずいぶん疲弊していた。憂慮している案件の中には、イタリア本土のことも含まれていて、電話はきっとその話だろうと思い受話器をとったのだ。
 面倒を見るのは嫌いではないが、フォローががあたりまえになることに、ドイツは随分不満を感じていた。相手がイタリアだからと諦めていた部分が、こういうとき、じわじわと心にしみ出してくる。
 本人を目の前にすると、柔和な雰囲気に流されて、どうでもよくなってしまうことが多いのだが、今夜は何故かイタリアの声が耳障りだった。悪気がないのは長年の付き合いでわかっているし、怒りをぶつけても仕方のないところだ。
 ドイツは時々思うことがある。
 イタリアにとって自分はずいぶん都合のいい国なのだろうと。
 もし自分が弱くなった時、イタリアは同じように電話をしてくるのだろうか。労ってくれるのだろうか。もう随分長い間一緒にいるのに、ドイツには自信がなかった。信用することができない自分の浅ましさを嫌悪した。
「……なんなんだ」
「ヴェ?」
 イタリアに対して、声で察して欲しいなどというのは無謀かもしれない。
「おまえにとって俺は一体なんなんだ。少しは……!」
 優しくしろ、そう言いそうになって、ドイツは言葉を飲んだ。こんなにも傲慢な期待を抱いていたことに驚いて、一瞬、恥ずかしさに頭が真っ白になる。まるで甘やかされたいと言っているようなものだ。
「ドイツ……?」
 口籠ったドイツに、イタリアが不審そうに聞き返してくる。
 望んでいる言葉が聴けないことに苛立っていた。思っているだけでは伝わるはずなどないのに、自尊心が邪魔をしていた。
「えっとー……、友達だよね」
「本当に友達なのか」
「え?」
「時代は変わって行くんだ……。俺たちの関係が変化しても、おかしくないだろう」
「どういうこと……?」
 ドイツはわざとらしくため息をついた。
「しばらく電話してくるな」
「ヴェッ……。しばらくってどのくらい? あのさドイツー、俺」
 一方的に電話を切ると、受話器をもとの位置には戻さず、床に転がした。ベッドに腰掛け、仰向けに倒れる。中には入らず、そのまま寝入ってしまった。朝起きると、携帯電話にイタリアからの着信が数回残っていた。
 来ていたメールは目を通したが、迷った末、返信しなかった。昨日の今日で格好がつかない。
 悔しいのは、今後イタリアに、自分と同じような想いを抱かせる事ができないと、わかっているからだ。こんな風に苛めても、きっと何も残らない。
 ドイツは、自分がとても幼稚だと思えた。これではまるで、欲しいものが手に入らず拗ねる子供のようだ。



***


「こんにちは」
 異質な存在に気付き、リヒテンシュタインは驚いて声をかけた。何故、自分の行きつけの雑貨屋にいるのかはわからなかったが、レースのリボンで飾られる店内に、明らかにそぐわない体躯の男がひとり、胸の高さの棚を睨んでいた。裁縫用品が半分と、絵はがき、筆記用具や、陶器の置物、ぬいぐるみなどが主立って陳列されている。
 頭一つ分高い顔を見上げると、腕組みをし前を見据えていた視線が動く。
「リヒテン!」
 ドイツは驚愕に目を見開き、そのあとバツが悪そうに視線を逸らして、ぎこちない笑顔を作った。
「奇遇だな」
「私のお気に入りのお店なんです」
「そうか……、ならば、ここはもうスイスか」
 今初めて気づいたようなことを言うドイツに、リヒテンシュタインは首を傾げる。
「今日はお一人なのですか?」
「ああ、贈り物を探していてな」
 リヒテンシュタインは柔らかく微笑んだ。
「良い物がありましたか?ここはとても可愛く包んで下さるんですよ」
「なかなか難しくて」
 ドイツはそれからもう一度棚に視線を戻す。
 見ていたのは、コルク栓のしまった透明の小びんだ。白砂と貝殻が半分ほどまで詰められ、首には群青のリボンがゆわえられている。リヒテンシュタインは踏み込んでいいものか迷い、しばらく同じように棚を眺めていた。
「私、お兄様にこの瓶をいただいてから、このお店を知ったんです。まだ海を見た事がなかったころに」
「そうなのか」
「見た目は湖の貝とそんなに変わらないですけど、海のものと聞くと、不思議と気分が高揚したものですわ……」
 ドイツはまた黙り込んでしまう。沈黙に耐えかね、リヒテンシュタインが別れの挨拶を口にしようとしたとき、ドイツが身を屈めて話しかけてきた。
「よかったら意見を聴かせてほしいんだが」
「えっ、はい。私でよければなんなりと」
「ケンカをしたんだ。電話で俺が……、虫の居所が悪く怒ってしまった。それから、謝ろうにも一切連絡がつかななくなってしまい、ずいぶん経って、その相手と来週久々に会うんだ」
「電話が通じないのですか?」
「ああ、どうやら電話線を抜いてるみたいで。携帯電話は持っているが……、切っているのか……電波が通じてないようなんだ」
「身の上になにかあったのでは……?」
「人づてに、当人は至って普通に暮らしているとは聴いているから、故意にやっているのだと思う」
「では、その時に渡すものを探しているのですね。自分のことを考えてくれたと、わかるものが良いと思います。何か手作りものですとか」
「菓子はよく作ってやっているんだ。だから、違う方が誠意が伝わるんじゃないか」
「よくお菓子を作って? まあ、お優しいのですね。焼き菓子でしたら、同じものを作って渡せば、充分と思いますわ」
「優しいとかではなくだな……」
 リヒテンシュタインは、ドイツの相手に検討がつき、微笑んだ。
「おうちを知っているのでしたら、待たずに直接会いに行けば良いのではないですか?」
「……しかし、そこまでしているのだから、顔も見たくないだろう」
「決めつけてしまうのは、よくないと思います」
「そうだろうか」
「ええ、そうです」
「リヒテンシュタインなら、会いに行くのか」
「失いたくない方ならきっと」
 ドイツはもう一度棚の瓶を見つめた。数種類の大きさの中から、手のひらに収まる程度の瓶を選ぶ。
「……海か。買ってくる。なあ、この辺はあまり知らないんだ。時間があったら美味い店を教えてほしい」


 食事を奢って満足したらしいドイツは、料理店の階段を下りる時には、随分柔らかな表情になっていた。
「チーズが最高だった。スイスにもよろしく伝えておいてくれ。リヒテンシュタイン、ここから家までは……」
「すぐです。まだ明るいので一人で大丈夫です」
「そうか。……俺はこれから詫びに行ってこようと思う」
「良かった…、そうしてくださいまし」
 二人は軽く挨拶を交わした。ドイツが背を向けた時、ふと思い出してリヒテンシュタインは言った。
「あっ……あの、貝はイタリアさんの海で取れた物らしいです……!」
「そっ…………、そうか」
「とくに意味はないのですけれど」
「ああわかってる。今日は本当にありがとう」
 ドイツはぎこちない笑みを残して去って行った。


***
 ドイツは、8時少し前にヴェネチアに着いた。ちょうど夕暮れ時で、朱色の陽射しが眩しく、石造りの建物に濃い影を作っている。石畳の階段を上がり、迷路のような曲がりくねった小道を行き、角を三回曲がると、イタリアの家が見える。二階建ての一軒家だが、小さな庭付きで、そこには料理に使うハーブが植わっていた。ロマーノは南の海沿いに家を持っているらしいが、食事がでるので、ここに住み続けているらしい。
 玄関のブザーを押そうとすると、横の庭にイタリアがいることに気づき、隠れて少し眺めていた。とくに変わった様子はない。ほんの少し寂しさを感じながら、思い切って声をかけた。
「イタリア」
 何かの草を抜いていたイタリアは、顔だけ振り向いてドイツを確認すると、すぐに立上がった。
「ドイツ……!」
 意外にもすぐさま駆けてきて、大股で柵を跨いで目の前までやって来た。
「俺の態度が悪かった。許してくれないか」
「うん! 俺のことも許してくれる……?」
「おまえは悪くない」
「でも怒ってるんでしょ?」
「いや、俺が未熟だったのだ。お……おまえが好きだ」
 ドイツは手に用意していた物を、イタリアの右手に押し付けた。
 黄色のシースルーの袋に、口を淡いブルーのリボンで結んである。
 イタリアはニコニコしていたが、渡された物がプレゼントだと気づいて、ドイツを見つめた。
「くれるの……? グラッツェ!」
 紐を解いて中を探り出す。
「もう電話もしていいからな」
 笑顔で頷いたイタリアは、手のひら大の小びんを夕日にかざした。
「わぁきれい!」
 イタリアはしばらく光輝く小びんの中を眺めていた。満足するとエプロンのポケットにしまう。俯いた時に目尻を拭っていた。顔を上げたイタリアは、照れくさそうに笑った。
「安心しちゃった……」
その様子を見て、ドイツも安堵に胸を撫で下ろし、身を翻した。
「じゃあな。また週末の会議で会おう」
「あっ、俺、今パスタ作るとこだったんだー! 兄ちゃん今日は帰ってこないから一緒に」
 イタリアが慌ててドイツのシャツを掴むと、勢い余って後ろ部分が全てズボンの外に出てしまう。
「えへ……ごめん」
 イタリアはちっとも悪いと思っていないような顔ではにかみ、石畳の階段を一歩おりて、ドイツの横に並んだ。シャツの腹部分も引っ張って出してしまう。裾から数十センチ、しっかりとした皺がついていて、これで出歩くのはみっともない。
「おい…」
「夜になるとドイツの声が聴きたくて……。電話しちゃうんだ。俺もドイツの声が一番好き。シャツごめんね、中で直して行きなよ」
 イタリアはクスクスと笑っている。ドイツは、遠回しなのか直接的なのかよくわからない誘いに、むず痒くなる。そして久々に感じたイタリアの無邪気な様子に、何故だか心を打たれ、目頭が熱くなっていた。
「仕方あるまい」
「ねぇ、ペスカトーレとペペロンチーノどっちが食べたい?」
「おまえの好きなほうがいい」



2011.08.19