俺のハートブレイカー


「えーっと、俺んち泊まるんだっけ……?」
 アルフレッドは、一メートルほど隣を平行して歩くアーサーを見下ろした。
「は?」
「なんでついてくるのさ」
「今日はこの裏のホテルに泊まんだよ。こっちからのほうが近いだろ?」
「ふーん、俺だってこっちから出る方が帰るのに近いから」
 会議終了後、控え室で一休憩してから出て来たというのに、なぜこうもタイミングがあってしまったのかわからない。大半の人は正面口に繋がるエレベータを使うから、こちらには来ないのだ。
 廊下を抜け、少しひらけた吹き抜けのホールに出ると、エレベータは一個しかなかった。

 ビルは三十階建てだ。
 乗り込んだ二人は無言だった。アルフレッドは何か話そうと思っていたが、予想以上にアーサーが顰め面なので、面倒に思い口を閉じていた。二人きりになることを、双方から避けているのが常なので、こういったことはめずらしかった。
 「息が詰まる」なんて、アルフレッドは普段あまり感じることがないけれど、アーサーと二人のときだけは、いつも言葉にできない居心地の悪さを感じる。
 アーサーにとっても、自分はそんな存在なのだろうと感じていた。だから、二人きりになるのは避けている。
 ふいに、天井のほうで小さな衝撃音がした。
 静けさのなか、二人ともそれに気づいて、反射的に上を見る。
 足下をすくわれるような少しの浮遊感。
 エレベーターの扉上部にある階を示すランプは、十二階から一切動かなくなった。
「えっ」
 アーサーが驚きの声をあげる。
「おいおい、何これ? もしかして止ったのかい?」
 信じられずに、二人は立ち尽くししばらく待った。非常ボタンを押し、さらにしばらく待った。エレベータはいっこうに動く気配がない。


「最悪だ、なんつー運の悪い!」
 アーサーは奥の壁を背にして、頭を抱えしゃがみこんだ。一人分あけてその隣にアルフレッドもしゃがみこむ。
「本当だよ。運が悪い。俺エレベータ止ったのなんて初めてだぞ!」
「俺だってそうだ! くそ、なんでこんな目に……!」
 アルフレッドが腕時計を確認すると、二人が非常ボタンを押してから、ゆうに三十分経っていた。右にチラと視線をやれば、アーサーは俯いたままだ。アルフレッドは鞄からペットボトルをとりだし、コーラを飲む。
「ねえアーサー、もしここの酸素が全部なくなったら……」
「だまれ、上に換気扇あるだろよく見ろ」
「なんだい、黙ってると気が滅入るかと思って人がわざわざ」
「話題を選べよ。ああもう……、おまえヒーローだろ、なんとかしろよ!」
「無茶いうなぁ。今日はスーツ着てるし無理なんだぞ」
 アーサーと二人きりになるのは本当に久しぶりだった。
 飴色の少し混ざる落ち着いた金髪も、近くで見るのは久々だ。左手首の年代物の腕時計は相変わらず。スーツは新しい仕立てのようだが、中に着ている紺色のベストは懐かしいものだった。
 懐かしく、見覚えがありすぎる。
 今は首周りしか見えていないというのに、右胸に施されているだろう刺繍の模様は、はっきりと思い出せた。それにまつわる、様々な出来事を思い出しそうになり、アルフレッドは一度目を強く瞑って堪えた。
「……俺、憧れたヒーローってのは結構たくさんいるけど」
 先程からちびちびのんでいたコーラの蓋を閉める。
「最初は誰だったと思う?」
 アーサーの方を見てそう言った。ゆっくりと顔をあげたアーサーは相変わらずの顰め面だったが、明らかに動揺している。
 視線がかち合い、瞬きを数度して、アーサーから眼を逸らした。
「し、……知らねぇよバカ」
「知ってるくせに」
 意地悪を言えば、アーサーはまた俯いてしまった。
 アーサーを苛めて、自分が得られる物は何もない。優越感が得られるかと思えばそれも違う。いい気分になるわけでもなかったし、ただほんの少し、胸が痛くなる。それはアルフレッドにとってつらい痛みだった。
 けれど、何故繰り返すのかといえば、自分がいることを忘れてほしくないからだ。
 たとえそれが無意味で、何も生み出さないとわかっていても、やめることができない。
「というわけで、君がなんとかしたらどうなんだい?」
「なんともできねぇ」
 アーサーが答えた瞬間、また天井から大きな軋みの音が響いた。アーサーは小さく叫び声をあげる。
 しかし同時に体がぶつかってきて、アルフレッドは驚いた。押し倒されはしなかったものの、重みで仰け反り、横に手をついてしまった。頭を抱えられている。
「なあ! 今少し落ちたよな! どうすんだよ、もし下まで落ちたら……、助かるわけねー!」
「……苦しいんだぞ」
 アーサーは我に返ったように体を離した。
 アルフレッドはこの場から消え去りたかった。目の前にある顔を見れば、きっと自分はどうにかなってしまう。
「べ、別に、俺が何かにしがみつきたかっただけで」
 アーサーは、しどろもどろになりながら言う。アルフレッドは俯き、眼を合わせないようにしていた。
 もう本当に、これ以上格好悪い姿は見たくないのだ。アーサーのこういう部分は、愛らしいと評されることのほうが多い。だがアルフレッドは見たくなかった。泣きたいほどに。自分より弱い姿は、見たくなかった。
「お前を、守ろうなんて、これ……っぽっちも思ってないからな!」
「わかってるさ」
「そうか……」
 アーサーは立ち上がって、数歩離れてから、また壁を背に座り込んだ。その姿を見ながら、アルフレッドは思う。
 あの頃みたいに、心から愛せたらいいのに。
 余計なものはすべて取り払って、信じきっていたい。その思いは薄れたり、濃くなったりを繰り返したけれど、何百年経っても、消え去りはしなかった。
「アーサー、コーク飲むかい」
「いらねぇ」
「じゃあ、……ホテルキャンセルして、うちへ来る? ここからじゃ、少し遠いけど。明日には、マシューも来るしね」
 大人になったくせに、同じベッドで眠った安心感をいつまでも引きずっている幼稚な自分が、ほんとうは一番忌々しいのだ。
 

END


2010.08.12